前回は「〜拡大する蜂須賀たちとの活動〜」という話でした。

少し時代が先に行き、有名な金ヶ崎の戦いの殿軍の話です。
この時は、秀吉が自ら殿軍を買って出た話となっています。
そして、光秀や家康(諸説あり)も協力して、辛くも退却した話となっています。

なんとか逃げ切った・・・



危ないところだった・・・





光秀殿、
ご協力感謝いたす。



木下殿の、浅井・朝倉の追撃戦の采配、
見事でござった。
退却戦において、秀吉は用兵巧みに戦い、浅井・朝倉軍を退けました。





あの木下藤吉郎という男の采配は、
なかなかのもの。
調略中心だった羽柴秀吉は、非常に優れた軍事的才覚を見せます。


柴田勝家などから軽んじられていた秀吉は、ここで一気に男を上げました。



猿よ!
よくぞ殿を務め上げた!



余が無事退却できたのも、猿の
奮戦のおかげだ!



有難き幸せ!





猿め!
なかなかやる!



私は調略だけではない!



軍事能力にも長けているのだ!
この時、すでに竹中重治が秀吉の参謀役となっていました。


いかに竹中重治の軍略が長けていて、秀吉の統率能力が高くても、当時の秀吉軍はそれほど強固な存在ではなかったのです。
まだ織田家で長い歴史のない羽柴秀吉の郎党は、それほど秀吉に忠誠心もない状況です。


その中、「絶体絶命」の退却戦を命を懸けて戦う義理はないです。
退却戦では、秀吉直轄の織田家正規軍よりも、傭兵の力が強かったのでしょう。