中世の権威の活用を目論んだ上杉謙信〜「叙任のお礼」で大軍勢引き連れて上洛・上洛の本当の狙いと川中島の戦い・中世の権威推戴のお手本〜|上杉謙信8・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「野心なき正義の武将・上杉謙信の実像〜足利将軍家を守る決意・「長子相続」の不文律を背に越後統一へ・実権なき新将軍の足利義輝〜」の話でした。

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

「叙任のお礼」で大軍勢引き連れて上洛

上杉謙信:越後統一(歴史群像シリーズ 戦国合戦大全 学研)

騒乱を極める京都に1553年、上洛した長尾景虎。

その前年に、景虎は従五位下・弾正少弼に叙任されています。

無官であった景虎にとって、「従五位下就任」は極めて重要なことでした。

ついに
弾正少弼になったぞ!

この「叙任のお礼」という名目で上洛した景虎。

叙任のお礼を
申し上げたい。

ただし、この上洛において、景虎は2,000名もの大軍勢を率いて、京都に乗り込んでいます。

2,000名もの大軍勢を引き連れて上洛すしたのは「尋常のこと」ではありません。

我が越後軍団
2,000名も一緒に来ました!

この2年前の1551年に、ようやく越後統一を成し遂げた景虎。

「越後統一」と言っても、揚北衆も長尾政景も「いつ裏切るか分からない」状況です。

まだ自国すら不安定な時期に、2,000名もの大軍勢を引き連れて上洛した景虎。

この思惑は、単に、

将軍家に叙任のお礼を
申し上げたい!

だけでは成り立ちません。

そもそも、叙任されたお礼に金品を上納することはあっても、わざわざ上洛する必要はないです。

しかも、信長の尾張などに比較して「京から遠い越後」から、わざわざ上洛した景虎。

景虎の護衛部隊だけであれば、50名、多くても100名いれば十分です。

自国が不安定な中、2,000名もの大軍勢を引き連れて行くことは、大変な事態です。

この頃の長尾家の動員力は、せいぜい10,000名ほどでしょう。

その1/5もの軍勢を上洛させることは、越後が危険になる可能性があります。

「越後ファースト」であり、関東管領就任後も、

関東管領だが、
我が本拠地は越後なのだ!

越後守護代の家に生まれて、越後にこだわり続けた景虎。

その景虎が「越後を危険に晒してまでして、上洛した」ことには大いに意味があるはずです。

さらには、それだけの大軍勢を移動させる経費は、非常にかかります。

足利将軍家を
お守りする存在であることを、公にするのだ!

我が長尾家は越後守護代であり、
公式に認められた家柄なのだ!

このことを
ハッキリと世の中の方に分かってもらいたい!

これこそが、長尾景虎の思いだったでしょう。

上洛の本当の狙いと川中島の戦い

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、当時の後奈良天皇に拝謁もし、権威固めをバッチリした景虎。

後奈良天皇に
拝謁したぞ!

そして、この景虎が上洛した1553年は、もう一つ重要な年です。

第N次
第一次1553年
第二次1555年
第三次1557年
第四次1561年
第五次1564年
川中島の戦い

武田信玄と川中島で初めて戦ったのが、1553年です。

村上義清を
追っ払って、信濃統一だ!

この直前に、信濃で大きな勢力を張っていた村上義清が、武田晴信(信玄)に痛撃を受けて、越後に来ました。

景虎殿・・・
我らを助けて、晴信を倒してください・・・

村上義清が
越後に助けを求めてきた・・・

武田晴信を叩かなければ、
ならない!

晴信に反撃を与え、
村上たちの要望を叶えてやろう・・・

有難う御座います!
景虎殿しか頼る方はいません!

任せろ!
我が長尾は越後守護代の家柄・・・

そして、北信濃へ進出して、
長尾家の領土拡大をするのだ!

このために、まだ24歳と若い景虎は、

将軍の権威をもとに、
大義名分を!

と考えて、一種のデモンストレーションも兼ねて、大軍勢を率いた上洛を敢行しました。

これこそが「景虎の上洛の本当の狙い」だったのでした。

中世の権威の活用を目論んだ上杉謙信:中世の権威推戴のお手本

室町幕府第十三代将軍 足利義輝(Wikipedia)

私は、
朽木谷に逃れている・・・

将軍義輝は京にはおらず、拝謁できませんでした。

戦国大名 三好長慶(Wikipedia)

当時の京は、三好長慶が実権を握っており、足利将軍家の影響力は地に堕ちていました。

戦国大名 松永久秀(Wikipedia)

さらに三好家の出頭人とされる松永久秀もまた、大変な影響力を持っていたのが、当時の京でした。

私は武家の頂点の
征夷大将軍だが・・・

我が足利将軍家の
居場所が京にはない・・・

このことは、事前に掴んでいたと思われる景虎。

将軍義輝様に
拝謁したかったが・・・

将軍の代わりに、
天皇に拝謁しよう・・・

これで、我が長尾家の
「正当性」が十分に示せるだろう・・・

と考えました。

この景虎の1553年の上洛が、具体的に「何月ごろであったか」は諸説あります。

9月頃という説が有力ですが、それは川中島の戦いがあった8月の直後です。

小競り合いとは言え、かなりの大軍が競り合った直後に、これだけ大規模な上洛は考えにくいでしょう。

おそらくは、「上洛は、8月の川中島の戦い前」と考えます。

いずれにしても、大義名分をしっかり得た景虎。

我が、長尾家は
バッチリ大義名分を得たのだ!

「もはや凋落していた」と言われる足利将軍家ですが、後に信長も推戴して京都へ入りました。

足利将軍家を
推戴して、大義名分を!

若き景虎もまた、中世の権威を十分に活用して、領土拡大を狙っていたのでした。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年

ある意味、「中世の権威推戴のお手本」を後輩・織田信長に見せつけたのが、1553年の景虎の上洛でした。

新歴史紀行

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