前回は「あたかも「瀬戸内海に築城」した今治城〜史上初「海と直接つながる」城・近江出身の藤堂高虎の思い・不沈空母のような多彩な島々〜」の話でした。
美しい瀬戸内海に魅了された藤堂高虎:姉川で織田徳川と戦った若き頃

今治城天守閣を上がってゆき、最上階に至ると展望台のように周囲を見渡せます。

瀬戸内海と、瀬戸内海の島々が目前に迫ってくるように感じるほど、近いです。

今治城から大きな島が連なっている景観は、非常に美しいです。
連なる島のみならば、より美しく、現代の大橋や建物が景観を乱しています。

島が多数ある瀬戸内海。
特に伊予と安芸の間には、かなり大きな島がいくつかあります。
江戸時代、これらの島の所有権が、幕府、またはどこかの藩であったかは不明瞭です。
仮に所有権が幕府であったとしても、管理は近くの藩に任されていたでしょう。

都市化された現代の様々な建物が見えないように、望遠レンズで瀬戸内海と島々を見たのが上の写真です。

藤堂高虎長い、長い歴史を
生きてきたが・・・


1556年、近江に生まれた藤堂高虎は、最初は浅井長政に仕えました。
浅井長政に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
浅井長政の重臣であった磯野員昌隊に所属した説が有力であった藤堂高虎。



最初は、浅井家に仕え、
織田軍と戦った・・・
1570年、数え年で15歳になっていた高虎は、姉川の戦いでも浅井軍の一員として戦いました。





姉川では、
徳川殿と戦ったな・・・
今治城築城当時は、「家康ベッタリ」だった藤堂高虎は、「姉川」で家康と戦いました。
もともと大柄な体格で、力も強かった高虎は猛将であり、武功も沢山あげました。



そして、今や
20万石の大大名だ!



それにしても、
瀬戸内海は、なんと美しいことよ・・・
往時の藤堂高虎は、今治城築城の際に、穏やかで美しい瀬戸内海に魅了されたことでしょう。
優美な木造建築の櫓たち:石落としで鉄砲攻撃


今治城には、大きな櫓が四つあり、多聞櫓、御金櫓、山里櫓、武具櫓(黒鉄門)があります。


これらの櫓も復元建築ですが、優美な木造建築です。
現代の梁とことなり、木の形状のままの円柱形の太くて長い梁によって、櫓が作られています。


櫓の木星模型が展示されていました。
この模型は、黒鉄門と合体した武具櫓と思われます。
このような木造軸組模型は、建築の世界でよくありますが、構造や構成が非常に分かりやすいです。


櫓では、石落としから石を落とす人形も展示されています。


あるいは、石落としから鉄砲を撃つ人形も展示されています。
実際に、このように石落としは籠城戦において、極めて重要な機能を持っていました。


高虎は、櫓をたくみに配置し、日本で最初に「枡形虎口」の形式を試みました。



櫓を枡形の周囲に
配置して・・・



周囲から一気に
集中攻撃するのだ!
この「枡形虎口」は、後に江戸城などで使用され、城郭建築のスタンダードになりました。


櫓では、矢狭間・鉄砲狭間も復元されています。


人形によって、籠城戦の際、矢狭間・鉄砲狭間で攻撃したイメージがよく分かります。
矢狭間・鉄砲狭間が残されている、現存十二天守の一つ松本城の話を、上記リンクでご紹介しています。
天守閣はもちろん、櫓も見どころ満載の今治城。
お近くに行く際は、ぜひ訪問してください。
次回は上記リンクです。




