前回は「戦闘型城郭の松本城〜初代松本城主石川数正の肖像・徳川家康の超重臣+兄的存在・関東=徳川家に近い位置〜」の話でした。
全てを武田流へ変更した家康:軍事の酒井忠次と外交の石川数正

1591年に、石川数正によって築城された松本城は、極めて戦闘に配慮した城郭です。
元徳川家康の超重臣であった石川は、小牧・長久手の戦い直後に、徳川家を突然出奔。

もはや徳川の
時代ではない・・・



これからは、
豊臣家に尽くす!
そして、石川は豊臣家に寝返りました。
裏切り・寝返り・謀反が日常茶飯事であった戦国時代において、この「石川数正出奔」は珍しい例です。
名前 | 生年 |
徳川 家康(松平 元康) | 1543年 |
酒井 忠次 | 1527年 |
石川 数正 | 1533年 |
当時、徳川家康を支える「両翼」のような存在であった石川数正と酒井忠次。
共に「徳川家全般を司る」立場で、若き家康を盛り立てました。





この酒井忠次は、
徳川家の軍事を司る!
家康よりも16歳も年上であった酒井忠次は、戦上手でもあり、主に徳川家の軍事を司りました。





長篠の戦いで、
鳶ヶ巣山砦を奇襲したのも私だ!
「鉄砲隊vs騎馬隊の戦い」の印象が強い長篠の戦い。
実は、長篠の戦いは、信長のによる綿密な包囲作戦であった側面がありました。
そして、長篠の戦いで「随一の武功を立てた」とも言えるのが、酒井忠次でした。



私は徳川家の
外交を司る!
対して、徳川家の政治・外交を司る立場であったのが、石川数正でした。
酒井忠次、石川数正共に「徳川家に不可欠」を超えて、若き家康にとっては「徳川家そのもの」でした。
ある意味で、当主の家康以上に「徳川家の全てを知っていた」石川数正。
その数正がよりによって、「徳川最大の敵」であった豊臣家に寝返ったことになりました。





か、数正が、
豊臣へ?
家康は驚天動地となり、徳川家に極大激震が走りました。
そして、「徳川家の全ての手の内」が豊臣家に開示されてしまいました。



やむを得ん・・・
徳川家の全てを再構築する!



これからは
武田流に変更!
そして、「徳川の全て」を「武田流に変更」した家康。
この家康の発想はピカイチであり、徳川家が強化することになりました。
鉄砲狭間と矢狭間が多い松本城:錚々たる松本城城主の歴史


軍事よりも外交向けであった石川数正でしたが、



私は徳川家の
軍事でも大いに活躍した!
若き頃から家康を支え続けたため、軍事の造詣も深く、築城術もまた抜群でした。



新たに信濃の中心地を
任された・・・



深志城から
松本城に名前を変更!
この頃、もともと「深志城(松本城)主」であった徳川家は、関東に移封させられていました。
1.武田家(深志城)
2.織田家(深志城)
3.徳川家(深志城)
4.石川家
5.小笠原家
6.戸田家
7.松平家
8.堀田家
9.水野家
10.戸田家(再度)



深志城から
松本城に名前を変更!
前身の深志城主は、武田家→織田家→徳川家であり、錚々たる歴史を持っていました。
そして、旧主である家康が、持っていた松本城を与えられた石川数正。
秀吉が、北条家を滅亡させた1590年のことでした。





信濃の中心である
深志城・・・



家康の城であったのだから、
よく知っている石川に任せよう・・・



家康に対する
面当てにもなるな・・・
そして、家康に対する嫌がらせも兼ねて、松本城及び10万石を石川数正に与えた秀吉。



あの
深志城か・・・
武田家にずっと悩まされ、武田に押しつぶされかけた徳川家。
そして、その武田軍が信濃から、徳川家の遠江や三河に雪崩れ込んでくる際の「信濃の基地」。
その「信濃の基地」であったのが深志城でした。



・・・・・
そのため、長年に渡り、徳川家を支え続けた石川数正にとっては、とても「馴染み深い」城であった深志城。
その深志城を拝領し、大規模な普請を実行した石川数正。



徳川家も近く、
籠城戦に耐え抜く城を普請する!


松本城は、他の城と比較して、柱の間隔が少し狭いです。



柱を多くして、
強固な城とする!


一間ごとに柱が立っている松本城天守一階。
関東と関西で異なりますが、「一間」は約2mです。
一般的に、木造建築では、柱と柱の最小間隔は「一間半」程度であることが多いです。



一間ごとに柱が立てて、
砲撃にも頑強な城とする!
普通の柱の間隔の2/3として、柱の本数を縦横それぞれ約1.5倍にして強固にしました。
つまり、縦横で柱の本数は、約2.25倍として普請した石川数正。


矢狭間・鉄砲狭間も多数作り、



松本城に向かってくる
敵を皆殺しだ!


武装強化に、かなり強い意図を持って普請された松本城は、狭間の数が多いのも特徴です。


石落としも多数あり、矢・鉄砲・石で籠城戦を耐え抜く思想が明確です。


天守一階の四隅全てに石落としがあり、小天守や櫓にも石落としがある松本城。
石落としは、11箇所に及び、他の城よりもかなり多いのが特徴です。



この石川数正の
全てを賭けて、松本城を普請する!
石川数正の「複雑な、ある思い」が伝わってくる渾身の城郭建築。
それが松本城です。