鉄砲狭間と矢狭間が多い松本城〜錚々たる松本城城主の歴史・全てを武田流へ変更した家康・軍事の酒井忠次と外交の石川数正〜|信濃・松本城4

前回は「戦闘型城郭の松本城〜初代松本城主石川数正の肖像・徳川家康の超重臣+兄的存在・関東=徳川家に近い位置〜」の話でした。

目次

全てを武田流へ変更した家康:軍事の酒井忠次と外交の石川数正

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戦国大名 石川数正(Wikipedia)

1591年に、石川数正によって築城された松本城は、極めて戦闘に配慮した城郭です。

元徳川家康の超重臣であった石川は、小牧・長久手の戦い直後に、徳川家を突然出奔。

石川数正

もはや徳川の
時代ではない・・・

石川数正

これからは、
豊臣家に尽くす!

そして、石川は豊臣家に寝返りました。

裏切り・寝返り・謀反が日常茶飯事であった戦国時代において、この「石川数正出奔」は珍しい例です。

名前生年
徳川 家康(松平 元康)1543年
酒井 忠次1527年
石川 数正1533年
松平・徳川家を支えた二強・酒井忠次と石川数正の生年

当時、徳川家康を支える「両翼」のような存在であった石川数正と酒井忠次。

共に「徳川家全般を司る」立場で、若き家康を盛り立てました。

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徳川家重臣 酒井忠次(Wikipedia)
酒井忠次

この酒井忠次は、
徳川家の軍事を司る!

家康よりも16歳も年上であった酒井忠次は、戦上手でもあり、主に徳川家の軍事を司りました。

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長篠合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)
酒井忠次

長篠の戦いで、
鳶ヶ巣山砦を奇襲したのも私だ!

「鉄砲隊vs騎馬隊の戦い」の印象が強い長篠の戦い。

実は、長篠の戦いは、信長のによる綿密な包囲作戦であった側面がありました。

そして、長篠の戦いで「随一の武功を立てた」とも言えるのが、酒井忠次でした。

石川数正

私は徳川家の
外交を司る!

対して、徳川家の政治・外交を司る立場であったのが、石川数正でした。

酒井忠次、石川数正共に「徳川家に不可欠」を超えて、若き家康にとっては「徳川家そのもの」でした。

ある意味で、当主の家康以上に「徳川家の全てを知っていた」石川数正。

その数正がよりによって、「徳川最大の敵」であった豊臣家に寝返ったことになりました。

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戦国大名 徳川家康(Wikipedia)
松平元康(徳川家康)

か、数正が、
豊臣へ?

家康は驚天動地となり、徳川家に極大激震が走りました。

そして、「徳川家の全ての手の内」が豊臣家に開示されてしまいました。

松平元康(徳川家康)

やむを得ん・・・
徳川家の全てを再構築する!

松平元康(徳川家康)

これからは
武田流に変更!

そして、「徳川の全て」を「武田流に変更」した家康。

この家康の発想はピカイチであり、徳川家が強化することになりました。

鉄砲狭間と矢狭間が多い松本城:錚々たる松本城城主の歴史

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松本城(新歴史紀行)

軍事よりも外交向けであった石川数正でしたが、

石川数正

私は徳川家の
軍事でも大いに活躍した!

若き頃から家康を支え続けたため、軍事の造詣も深く、築城術もまた抜群でした。

石川数正

新たに信濃の中心地を
任された・・・

石川数正

深志城から
松本城に名前を変更!

この頃、もともと「深志城(松本城)主」であった徳川家は、関東に移封させられていました。

歴代松本城(深志城)主

1.武田家(深志城)

2.織田家(深志城)

3.徳川家(深志城)

4.石川家

5.小笠原家

6.戸田家

7.松平家

8.堀田家

9.水野家

10.戸田家(再度)

石川数正

深志城から
松本城に名前を変更!

前身の深志城主は、武田家→織田家→徳川家であり、錚々たる歴史を持っていました。

そして、旧主である家康が、持っていた松本城を与えられた石川数正。

秀吉が、北条家を滅亡させた1590年のことでした。

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天下人・関白 豊臣秀吉(Wikipedia)
豊臣秀吉

信濃の中心である
深志城・・・

豊臣秀吉

家康の城であったのだから、
よく知っている石川に任せよう・・・

豊臣秀吉

家康に対する
面当てにもなるな・・・

そして、家康に対する嫌がらせも兼ねて、松本城及び10万石を石川数正に与えた秀吉。

石川数正

あの
深志城か・・・

武田家にずっと悩まされ、武田に押しつぶされかけた徳川家。

そして、その武田軍が信濃から、徳川家の遠江や三河に雪崩れ込んでくる際の「信濃の基地」。

その「信濃の基地」であったのが深志城でした。

石川数正

・・・・・

そのため、長年に渡り、徳川家を支え続けた石川数正にとっては、とても「馴染み深い」城であった深志城。

その深志城を拝領し、大規模な普請を実行した石川数正。

石川数正

徳川家も近く、
籠城戦に耐え抜く城を普請する!

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松本城(新歴史紀行)

松本城は、他の城と比較して、柱の間隔が少し狭いです。

石川数正

柱を多くして、
強固な城とする!

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松本城(新歴史紀行)

一間ごとに柱が立っている松本城天守一階。

関東と関西で異なりますが、「一間」は約2mです。

一般的に、木造建築では、柱と柱の最小間隔は「一間半」程度であることが多いです。

石川数正

一間ごとに柱が立てて、
砲撃にも頑強な城とする!

普通の柱の間隔の2/3として、柱の本数を縦横それぞれ約1.5倍にして強固にしました。

つまり、縦横で柱の本数は、約2.25倍として普請した石川数正。

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松本城(新歴史紀行)

矢狭間・鉄砲狭間も多数作り、

石川数正

松本城に向かってくる
敵を皆殺しだ!

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松本城(新歴史紀行)

武装強化に、かなり強い意図を持って普請された松本城は、狭間の数が多いのも特徴です。

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松本城(新歴史紀行)

石落としも多数あり、矢・鉄砲・石で籠城戦を耐え抜く思想が明確です。

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松本城(新歴史紀行)

天守一階の四隅全てに石落としがあり、小天守や櫓にも石落としがある松本城。

石落としは、11箇所に及び、他の城よりもかなり多いのが特徴です。

石川数正

この石川数正の
全てを賭けて、松本城を普請する!

石川数正の「複雑な、ある思い」が伝わってくる渾身の城郭建築。

それが松本城です。

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