織田信長 12〜覇王の戦略 5〜|戦国武将

前回は「織田信長 11〜覇王の戦略 4〜」の話でした。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

足利義秋(義昭)を奉じて、上京する決断をして、その段取りを進める信長。

足利 義昭(Wikipedia)

信長は、やってくれそうか。

では、信長のいる岐阜へゆこう!

朝倉 義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

なんだと?

我が朝倉に見切りをつけ、織田へ、だと?

明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

見切り、だなんて、とんでもない。

織田の様子を見に行くだけです。

朝倉家にも世話になっていた、明智光秀は、こんな風にでも説明したでしょう。

おのれ。信長め・・・

のちに戦うことになる織田と朝倉。

この時に、その戦いのタネが撒かれていました。

桶狭間の戦いでは、奇襲攻撃(正面奇襲攻撃説もあり)で今川軍に完勝した信長。

以後、美濃での数多くの戦いを経て、かなりの戦の玄人となっていました。

足利殿を奉じての上京作戦は、
万全期すのだ!

美濃を制圧した翌1568年に足利義昭を奉じた織田信長は、猛烈な勢いで、京へ向けて進軍します。

まさに「遠交近攻」を地でゆくような戦略で、非常に堅実でした。

1567年の織田家と諸大名の関係(歴史人2020年2月号 KKベストセラーズ)

徳川家康・浅井長政らとの強固な同盟の上、近畿圏を疾風怒涛のごとく制圧します。

これは、上杉謙信の関東侵攻と似た状況で、非常に劇的な状況でした。

革命児 織田信長は、この戦略にかけては、非常にスタンダードかつ古典的とも言える手法をとっています。

桶狭間以降、美濃での数多くの戦いを経験し、時には苦渋をなめた信長。

戦は数よ!

信長は「出来るだけ相手よりも大勢の軍勢を集めて合戦に挑む」という、至極常識的な戦法を取り続けます。

進め〜!

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