戦国の覇王・織田信長が睨んだ「日本の中心」京〜「至極常識的な戦法」の上洛戦・義景と信長の間を取り持つ若者長政・朝倉と足利の「両属家臣」だった明智光秀・激怒した朝倉義景〜|織田信長12・人物像・エピソード

前回は「織田信長が目をつけた「中世的大権威=足利家」〜家柄が低かった「信長の織田家」・守護代ですらなかった織田家・武田家を抜き去り「旭日の如き勢い」の織田家〜」の話でした。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

戦国の覇王・織田信長が睨んだ「日本の中心」京

New Historical Voyage
織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

桶狭間の戦い直後から、美濃攻撃を続けてきた織田信長。

足掛け8年がかりで、ようやく稲葉山城を陥落させ、美濃のほぼ全土を手中に納めました。

長い、長い時間が
かかったのう・・・

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年(新歴史紀行)

桶狭間の戦いの時は26歳(数え年)だった青年武将・織田信長。

美濃を併呑した時は、34歳の壮年になっていましたが、武田信玄は13歳年上、北条氏康は19歳年上です。

数ある戦国大名の中では、織田信長は「まだまだ若造」でした。

足利将軍後継有力候補 足利義昭(Wikipedia)

誰でもいいから、
私を将軍にしてくれないか・・・

三好家に「放逐された」状況だった、かつての将軍足利義輝の弟の義秋(義昭)。

朝倉家は強国だが、
上洛する気はあるのか?

妻の縁で若狭・武田家、ついで越前・朝倉家に寄宿して、上洛を窺っていました。

足利将軍家を
奉じて上洛か・・・

よしっ!
やってやろうじゃないか!

足利義秋(義昭)を奉じて、上京する決断をした信長。

その段取りを具体的に進めることになり、

我が織田家が
京へ行くのだ!

尾張と美濃の二カ国を領し、旭日の勢いの織田家は、さらに飛躍を目指しました。

朝倉と足利の「両属家臣」だった明智光秀:激怒した朝倉義景

朝倉家、足利家家臣 明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この時、朝倉家の家臣であり足利家の家臣でもあった「両属の立場」だった明智光秀。

この頃の光秀の歴史は、様々な説がありハッキリしません。

のちに、「足利家と織田家の両属の立場」になった光秀。

当時の国衆・地侍には、「ある家とある家の両属状態」という方々も多かったで、

私は朝倉家の家臣であり、
足利家の家臣でもある・・・

光秀は「朝倉と足利の橋渡し」の役割もしていました。

信長は、
やってくれそうか?

信長は、信秀の代から
朝廷に多額の献金を行っています・・・

私を奉じて上洛する
力はあるのか?

織田家は猛烈な勢いを持っており、
家臣団も超優秀です・・・

では、信長のいる
岐阜へゆこう!

そして、朝倉家を出て織田家に向かう」ことを決心した義秋(義昭)。

戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

な、なんだと?
義秋(義昭)様が?

我が朝倉に見切りをつけ、
織田へ、だと?

「メンツ丸潰れ」の朝倉義景は激怒しました。

これは当然であり、自分が「庇護していた」つもりの義昭が勝手に「織田家に行く」のです。

しかも、お互い「斯波家を支える立場だった」という微妙な中である朝倉と織田。

よりによって、
なぜ、織田なのか!

怒り心頭の朝倉義景に対して、「家臣」だった明智光秀は困ってしまいました。

そして、

見切り、だなんて、
とんでもない。

織田の様子を
見に行くだけです。

朝倉家に長年「世話になっていた」立場の明智光秀は、こんな風にでも説明したでしょう。

おのれ。
信長め・・・

のちに戦うことになる織田と朝倉。

この時に、その戦いのタネが撒かれていました。

「至極常識的な戦法」の上洛戦:義景と信長の間を取り持つ若者・長政

新歴史紀行
桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

桶狭間の戦いでは、奇襲攻撃(正面奇襲攻撃説もあり)で今川軍に完勝した信長。

あの時は万全の戦略を
練っていたが、幸運もあった!

「軍神」というと上杉謙信や武田信玄が思い浮かびますが、信長の軍事力はピカイチでした。

考え方によっては、軍事能力は「謙信・信玄を超えていた」という評価が妥当な信長。

以後、美濃での数多くの戦いを経て、かなりの戦の玄人となっていました。

足利将軍家を奉じる上京作戦は、
万全期すのだ!

戦国大名 浅井長政(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

北近江で勢力を張る浅井長政とは、かねてから妹のお市を嫁がせて、万全の体制です。

長政よ!
近江は任せたぞ!

はっ!
兄上、お任せを!

我らの目上である
朝倉と織田が仲良くしてくれれば良いが・・・

長年、朝倉家の従属大名的立場であり、石高が全く違う朝倉家と浅井家。

「格が違う」立場であり、よりによって「天敵同士の朝倉と織田」の間に立つことになりました。

名前生年
朝倉義景1533年
織田信長1534年
浅井長政1545年
戦国武将大名の生年(新歴史紀行)

ほとんど「同い年」だった義景と信長に対して、11歳年下の長政。

1568年当時は、24歳(数え年)の若者でした。

私が間に入って、
織田と朝倉の間を取り持とう・・・

おそらく、長政はこう考えていたでしょう。

美濃を制圧した翌1568年に足利義昭を奉じた織田信長は、猛烈な勢いで、京へ向けて進軍します。

そして、隣国三河の徳川家康、信濃の武田信玄と同盟を結びました。

さらには越後の謙信とも友好関係を保っていました。

まさに「遠交近攻」を地でゆくような戦略で、非常に堅実でした。

1568年の織田家と諸大名の関係(歴史人2020年2月号 KKベストセラーズ)

徳川家康・浅井長政らとの強固な同盟の上、近畿圏を疾風怒涛のごとく制圧します。

これは、上杉謙信の関東侵攻と似た状況で、非常に劇的な状況でした。

革命児であり「戦国の革新者」であった織田信長。

この戦略にかけては、非常にスタンダードかつ古典的とも言える手法をとっています。

桶狭間以降、美濃での数多くの戦いを経験し、時には苦渋をなめた信長。

「戦は数」なのだから、
とにかく兵を集めるのだ!

「出来るだけ相手よりも大勢の軍勢を集めて合戦に挑む」という戦略です。

よしっ、これで万全だ!
全軍、進め!

合戦の全てを知り尽くしていたからこそ、信長は「至極常識的な戦法」を取り続けたのでしょう。

新歴史紀行

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