前回は「織田信長 11〜覇王の戦略 4〜」の話でした。

足利義秋(義昭)を奉じて、上京する決断をして、その段取りを進める信長。


信長は、やってくれそうか。



では、信長のいる岐阜へゆこう!





なんだと?



我が朝倉に見切りをつけ、
織田へ、だと?





見切り、だなんて、
とんでもない。



織田の様子を
見に行くだけです。
朝倉家にも世話になっていた、明智光秀は、こんな風にでも説明したでしょう。



おのれ。
信長め・・・
のちに戦うことになる織田と朝倉。
この時に、その戦いのタネが撒かれていました。
桶狭間の戦いでは、奇襲攻撃(正面奇襲攻撃説もあり)で今川軍に完勝した信長。
以後、美濃での数多くの戦いを経て、かなりの戦の玄人となっていました。



足利殿を奉じての上京作戦は、
万全期すのだ!
美濃を制圧した翌1568年に足利義昭を奉じた織田信長は、猛烈な勢いで、京へ向けて進軍します。


北近江で勢力を張る浅井長政とは、かねてから妹のお市を嫁がせて、万全の体制です。
そして、隣国三河の徳川家康、信濃の武田信玄と同盟を結び、さらには越後の謙信とも友好関係を保っていました。
まさに「遠交近攻」を地でゆくような戦略で、非常に堅実でした。


徳川家康・浅井長政らとの強固な同盟の上、近畿圏を疾風怒涛のごとく制圧します。
これは、上杉謙信の関東侵攻と似た状況で、非常に劇的な状況でした。
革命児 織田信長は、この戦略にかけては、非常にスタンダードかつ古典的とも言える手法をとっています。
桶狭間以降、美濃での数多くの戦いを経験し、時には苦渋をなめた信長。



戦は数よ!
信長は「出来るだけ相手よりも大勢の軍勢を集めて合戦に挑む」という、至極常識的な戦法を取り続けます。



進め〜!