前回は「築城二巨頭の一人・藤堂高虎が築いた今治城〜加藤清正と二巨頭・高虎の「思い」詰まった古図面・8万石から一気に20万石へ〜」の話でした。
大理石が多用された「化粧石垣」の今治城:美しさ引き立てる石垣

美しい水城で有名な今治城は、1602年に藤堂高虎によって築城されました。

藤堂高虎いよいよ20万石の
大大名だ!
若い頃から、様々な大名に仕え、着実に立身出世していった藤堂高虎。
知将の印象が強い藤堂高虎は、かなり大柄で、若い頃は戦闘能力にも大きな自信を持っていました。
いわば、文武両道であり、さらに築城術などの特殊技術を有していた異能の武将でした。


今治城内の展示は、土管や武器など様々な展示があり、非常に充実しています。


あまりに美しい水城である今治城は、様々な特徴があります。
大きな特徴の一つが、「大理石が数多く使用されている」点です。


これは、言われてみれば分かることで、城の外観を見ていて、気づかないことでした。
写真の通り、確かに「普通の城郭の石垣」とは大きく異なり、白い大理石が目立ちます。


改めて今治城の外観を見てみると、石垣の白さが際立っている事実に気づきます。
この「石垣の白さ」こそ、水城としての今治城の美しさを引き立てているのでしょう。
戦国時代まで、主に防衛のために作られた石垣。



「関ヶ原」の後は、
徳川様の天下・・・



これからの城は
美しくなければならん!
「化粧石垣」とも呼べる美しい石垣には、藤堂高虎の「美しい城」への思いが感じられます。
50歳間近の藤堂高虎の猛烈な意気込み


さらに、この美しい石垣を作るための石に関しても、「瀬戸内海との結びつき」がありました。
どんな城でも、石垣を構成する石は大きく固い必要があるため、どこかから運搬する必要があります。



瀬戸内海のすぐ近くに
新たに築く今治城・・・



堅固で防御力に優れた
城であるのは当然であり・・・



天下一美しい
水城にするのだ・・・
それまでに、宇和島城の築城、大洲城の大規模改修を縄張、指揮した経験を持つ藤堂高虎。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
宇和島城は「現存十二天守」の一つです。
そして、1556年生まれの藤堂高虎にとって、「関ヶ原」の時は45歳(数え年、以下同)でした。
いわば、多数の築城経験を持ち脂が乗り切った年齢だった藤堂高虎は、やる気満々だったでしょう。





高虎殿には、
12万石を加増しよう・・・



これで、東堂殿は、
20万石の大大名でござる・・・



はっ、有難き
幸せ!
8万石から20万石の大大名へ飛躍した藤堂高虎にとっては、「自分の集大成」こそが今治城でした。
現代では45歳は若く、当時すでに家康が60歳を超えていたことを考えると、



まだまだ、
この高虎、仕事が出来るわ!
「まだまだ先がある」年齢だった藤堂高虎。





人間五十年、
下天のうちを比ぶれば・・・



夢幻の
如くなり・・・
若い頃から「人生五十年」と連呼していた信長は、49歳で横死し、事実となりました。
本能寺の変に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
家康は 「60過ぎてもバリバリ」でしたが、「50で人生が終わるかもしれない」雰囲気だった当時。



ひょっとすると、
我が身も、もうすぐ滅するかもしれぬが・・・



この藤堂高虎の
生き様を、今治城に刻んでみせよう!
おそらく、藤堂高虎は、猛烈な意気込みで今治城の縄張(設計)に当たったでしょう。
瀬戸内海と結びついたような地に築城された今治城。



城の美しさは、
天守閣と石垣が重要だ・・・



その石は、
瀬戸内海付近の島から調達する!
大量の美しい石を「タダ取り」した渡辺勘兵衛


石垣を集めるために、築城奉行だった渡辺勘兵衛は、



船一杯の石材を
運んだ者には同等の米を与える!
こう触れ回り、大勢の瀬戸内海の島々から石材を集めました。



ちょっと
調子の良いことを言い過ぎたか・・・



こんなに集まってしまうと、
米が用意できん・・・
こう考えた勘兵衛は、悪知恵を働かせました。



石材はもう十分に
集まったので、もういらぬ・・・



捨てるのは良いが、
航行の邪魔になるので・・・



海には決して
捨ててはならん!



えっ、
そんな・・・



さもなくば、
持って帰れ!



そんなこと
急に言われても・・・
困った石を運んでいた船頭たちは、



こんな重いの持って帰るのは
大変過ぎる・・・



捨てるしかないが、
海に捨てたら、罰せられる・・・



海辺ならば、海ではないから
罰せられぬだろう・・・
仕方なく、海辺に石を捨てた船頭たち。



ふっふっふ・・・
我が計、当たれり!
そして、「捨てられた」美しい石たちを使って、渡辺勘兵衛は築城の指揮を取り続けました。
これは渡辺勘兵衛の知恵ではなく、藤堂高虎の知恵であり「高虎の指示」だったと考えます。
後に、討幕軍に対して「いの一番に官軍に寝返った」藩の一つ、藤堂藩。
いかにも「藤堂らしい」逸話です。
このような「嘘のような本当な話」の中、美しき今治城が、こうして生まれました。
次回は上記リンクです。



