前回は「本能寺の変 22〜信長の将来構想 2・天皇との関係・足利将軍との関係・武田勝頼〜」の話でした。

武田家を討滅した信長

もはや織田家の天下が確定していた1582年の当時。

長年の悲願であった武田家を討滅した信長。
おそらく、信長は当時有頂天だったでしょう。


ついに、
ついに武田を潰した!
1575年の長篠の合戦で、武田家に大勝した織田・徳川連合軍。


織田家はオールスターに近い武将を信長自身が引き連れて、合戦に臨みました。





信長、
なにするものぞ!
織田・徳川連合軍38,000名ほどに対し、武田勝頼は15,000名ほどの武田軍を率いて正面衝突しました。
この時は、信長の「鉄砲三段撃ちで武田に快勝した」という説が有力です。



鉄砲
三段撃ちだ!
「弾込めに時間がかかる」という鉄砲の弱点は誰でも知っていました。
軍事の天才・織田信長ですが、この「三段撃ち」は、天才・信長でなくても思いつくでしょう。
最も大事なのは、酒井忠次の別働隊でした。


若い家康に率いられた若き精鋭たちが、老練な武田の家臣団に打ち勝ちます。


一気に弱体化した武田家に対して、「信長は更に弱体化するのを7年待った」説があります。
これは結果論であり、信長としては



武田に致命傷を
与えたが・・・



東ばかり見ているわけには
いかない!
西側を、おろそかにはできません。
それは、長篠の合戦の2年前の1573年に放逐した足利義昭の存在がありました。
足利将軍と信長





信長め!
1568年の上洛以来、こじれにこじれていた信長と義昭の関係。
足利義昭は何度も信長には向かいますが、その度に信長は許してきました。



なんといっても、
将軍だ・・・



消してやりたいが、
そうもいかない・・・
信長の天才性や織田家の底力が分かっている後世から見ると、足利将軍家の立ち位置が変わります。
後世から考えれば、足利義昭の存在など「大したことない」ように思えます。
一方で、なんといっても前将軍であり、かなりの権威を持っています。
なんといっても「武家の棟梁=征夷大将軍」であった足利義昭。



余が命令すれば、
動く武士は、まだまだ多い。
そして、京・山城から足利義昭を武力で放逐した織田信長。



義昭をこの世から
消せば、足利将軍はこの世に存在しない!



それをやるか
どうか・・・
悩みに悩んだ信長。



・・・・・
果断な信長でしたが、実は非常に慎重な正確でもありました。



義昭を殺すのは、
デメリットの方が大きい・・・
そこで、足利義昭を「この世から消す」のではなく、放逐するに至りました。



事実上、室町幕府は
滅亡した!



覚えていろよ!



まだ、
私は将軍だ!





足利義昭が
信長に敗北したか・・・



足利義昭の
将軍職を解任して下さい!



そう簡単には
できぬ・・・
信長の要求を突っぱねた正親町天皇。
鞆幕府:政権維持続ける「現」将軍義昭
信長に追われた足利義昭は「前将軍」でありますが、正式には一応「現将軍」でもあります。



毛利家よ、
私を支えてくれ。
そして、毛利家を頼り、備前の鞆で滞在した足利義昭。
毛利輝元を副将軍として、小早川隆景、吉川元春ら毛利の重臣たちを家臣扱いします。
まるで「幕府ごっこ」のような状況を作り出した足利義昭。
権限はないに等しいですが、なんといっても一応は「現将軍」でもあるため、「一定の権威」はあります。





足利将軍家の
権威は利用できる。
信長の天下が定まりつつあるとはいえ、九州地方には織田家の旗がまだ立っていません。
大友家と長年死闘を演じた毛利家は、足利将軍の権威パワーを利用して、九州へ足場を築こうとします。



九州の大友は、
私に誼を通じてきたが・・・



義昭の動き次第では、
織田に歯向かってくるかもしれぬ・・・
そして、もともとは足利義昭の家臣であり、元は足利将軍を頂点とする組織では「信長と対等な立場」だった光秀。


室町幕府及び足利義昭の扱いは、信長にとって非常に大きな問題でした。



毛利を倒した後、
鞆の義昭をどうするか・・・