前回は「織田信長が見つめていた日本国の将来〜現将軍足利義昭との決着・一気に東に領土が拡大した織田家・超正統派武田家討滅戦・「清和源氏嫡流+守護」武田の影響力〜」の話でした。
織田信長らしさ全開の長篠の戦い:「超合理的な軍事の天才」と三段打ち
もはや織田家の天下が確定していた1582年の当時。
長年の悲願であった武田家を討滅した信長。
おそらく、信長は当時有頂天だったでしょう。
ついに、
ついに武田を潰した!
1575年の長篠の合戦で、武田家に大勝した織田・徳川連合軍。
長篠の戦いでは、織田家はオールスターに近い武将を信長自身が引き連れて、合戦に臨みました。
信長、
なにするものぞ!
織田・徳川連合軍38,000名ほどに対し、武田勝頼は15,000名ほどの武田軍を率いて正面衝突しました。
この時は、信長の「鉄砲三段撃ちで武田に快勝した」という説が有力です。
鉄砲
三段撃ちだ!
「弾込めに時間がかかる」という鉄砲の弱点は、当時誰でも知っていました。
軍事の天才・織田信長ですが、この「三段撃ち」は天才・信長でなくても思いつく「単純な発想」でした。
「三段撃ち」が実際になされたかどうかは、諸説あります。
いずれにしても、「大量の鉄砲確保」という単純な解決策を大胆に押し進めた信長。
鉄砲の数が多ければ、
時間がかかる弱点は克服できる!
この点で、長篠の戦いは「超合理的な軍事の天才」織田信長らしさが究極的に発揮された戦いでした。
最も大事なのは、酒井忠次の別働隊でした。
武田の退路を
絶ってしまえ!
若い家康に率いられた若き精鋭たちが、老練な武田の家臣団に打ち勝ちます。
一気に弱体化した武田家に対して、「信長は更に弱体化するのを7年待った」説があります。
これは結果論であり、信長としては
武田に致命傷を
与えたが・・・
東ばかり見ているわけには
いかない!
西側を、おろそかにはできません。
そして、長篠の合戦の2年前の1573年に放逐した足利義昭の存在がありました。
足利将軍と織田信長の異常な確執:「将軍を消す」メリットとデメリット
信長め!
信長を倒すのだ!
1568年の上洛以来、こじれにこじれていた信長と義昭の関係。
足利義昭は何度も信長には向かいますが、
何度も何度も
逆らいおって・・・
将軍という武家の頭領である義昭から見れば、
逆らっているのは
お前の方だ!
ということですが、信長は何度も窮地に陥り、その度に信長は許してきました。
なんといっても、
将軍だ・・・
消してやりたいが、
そうもいかない・・・
信長の天才性や織田家の底力が分かっている後世から見ると、足利将軍家の立ち位置が変わります。
後世から考えれば、足利義昭の存在など「大したことない」ように思えます。
一方で、なんといっても前将軍であり、かなりの権威を持っています。
なんといっても「武家の棟梁=征夷大将軍」であった足利義昭。
余が命令すれば、
動く武士は、まだまだ多いぞ!
お調子者の義昭でしたが、「将軍の権威」はまだまだ健在でした。
そして、京・山城から足利義昭を武力で放逐した織田信長。
義昭をこの世から
消せば、足利将軍はこの世に存在しない!
それをやるか
どうか・・・
悩みに悩んだ信長。
・・・・・
果断な信長でしたが、実は非常に慎重な正確でもありました。
義昭を殺すのは、
デメリットの方が大きい・・・
そこで、足利義昭を「この世から消す」のではなく、放逐するに至りました。
事実上、室町幕府は
滅亡した!
信長めが!
覚えていろよ!
まだ、
私は将軍なのだ!
足利義昭が
信長に敗北したか・・・
足利義昭の
将軍職を解任して下さい!
そう簡単には
できぬ・・・
信長の要求を突っぱねた正親町天皇。
政権維持続けた「現」将軍義昭と「鞆幕府」
信長に追われた足利義昭は「前将軍」でありますが、正式には一応「現将軍」でもあります。
毛利家よ、
私を支えてくれ。
そして、毛利家を頼り、備前の鞆で滞在した足利義昭。
「鞆幕府」と表現されることもあり、この表現の是非は様々な議論があります。
「幕府」という表現の適切さは別として、義昭からすれば、
私がいるところが
「足利幕府」なのだ!
こう考えていたでしょう。
毛利輝元を副将軍として、小早川隆景、吉川元春ら毛利の重臣たちを家臣扱いします。
まるで「幕府ごっこ」のような状況を作り出した足利義昭。
権限はないに等しいですが、なんといっても一応は「現将軍」でもあるため、「一定の権威」はあります。
足利将軍家の
権威は利用できる。
信長の天下が定まりつつあるとはいえ、九州地方には織田家の旗がまだ立っていません。
大友家と長年死闘を演じた毛利家は、足利将軍の権威パワーを利用して、九州へ足場を築こうとします。
九州の大友は、
私に誼を通じてきたが・・・
義昭の動き次第では、
織田に歯向かってくるかもしれぬ・・・
そして、もともとは足利義昭の家臣であり、元は足利将軍を頂点とする組織では「信長と対等な立場」だった光秀。
室町幕府及び足利義昭の扱いは、信長にとって非常に大きな問題でした。
毛利を倒した後、
鞆の義昭をどうするか・・・
そして、信長が未来を考えていた時に「ちょっとしたスキ」が生まれました。
その「ちょっとしたスキ」を見逃さなかった光秀は、
織田信長を
討滅せよ!
明智の全軍を率いて、本能寺に向かったのでした。