前回は「立花道雪 1〜大友家の武雷神〜」の話でした。

北から毛利家の猛烈な圧力が増加する中、立花道雪は奮闘します。
下図は1559年頃の九州勢力図で、大友家の猛烈な勢いが感じられます。


大友家は、九州六カ国の守護。
九州最強なのだ!
信長が桶狭間の戦いで一気に世に出てくる頃、龍造寺家をも従属させていた大友家。
大友家は巨大な版図に大きな経済力、鉄砲など最新鋭の兵器、そして立花道雪ら優れた武将たちを抱え、隆盛期を迎えます。


この時点では、関東を席巻した上杉氏、中国・九州地方の毛利氏と並び、戦国三強の一角となっていたといえます。


ここで毛利と大友が、武田・北条・今川の三国同盟のように、北九州で休戦協定を結んでいたら。
そして、それぞれ毛利は中国地方、大友は九州地方を攻めていたら、戦国時代の様相は大きく変わったでしょう。



立花道雪は、手強い存在だ。
この時点で、上杉家・毛利家・大友家それぞれの人材の総力は甲乙つけがたい状況でした。
後世の評価は、毛利元就、上杉謙信の方がはるかに高い大友宗麟。
1560年頃の宗麟は進歩的で政治的才能も高く、元就・謙信とも伍す存在でした。


1560年頃は立花道雪は50手前で、戦国期の感覚では高齢と言って良い年齢です。
ここで毛利・大友双方が矛を収めて入れば、もう少し安寧とした人生が送れたかもしれません。
それとは裏腹にこの後、毛利と大友は北九州を舞台に長年の死闘を演じることとなります。
毛利元就の調略によって筑前の国人たちの離反が相次ぎます。



敵を倒しても、またすぐに敵が出てくる。



この道雪が、大友家に敵するものを、
全て叩き倒してみせる!
そして、立花道雪は北九州の戦場を猛烈に駆け回ることになります。
まさに「大友家の鬼」として、北九州各地を戦い続けたのでした。


後の幕藩体制から明治維新にかけて、九州で最強・最大の島津薩摩藩が、九州において最重要な位置を占めます。
薩摩は海の南から琉球などを通して、世界と繋がります。長崎・出島と並び、薩摩が「外国との窓口」となっていきます。
戦国のこの頃、外国との窓口・南蛮船との貿易などのつながりに関しては、南九州よりも北九州の方がはるかに比重が高かったのです。
そして、九州の政治的・軍事的重心は北側に寄っていたのでしょう。


その意味で北九州で毛利・大友が死闘を続けるのは必然であり、「西の川中島合戦」とも言える毛利・大友戦。
そして、武雷神・立花道雪は、大友家の戦場の最前線での総司令官的立場で奮闘します。