前回は「大友家の武雷神・立花道雪〜西国の武闘派代表・超名門の大友家と大内家・宗麟が目論んだ大内+大友の巨大連合・毛利との死闘〜」の話でした。

大友家の興隆:半身不随の道雪

北から毛利家の猛烈な圧力が増加する中、立花道雪は奮闘します。
若き頃に雷に打たれて半身不随になるも、北九州で奮闘を続けた道雪。

半身不随となったが、
我が軍事能力・采配は変わらぬ・・・



いや、むしろ
我が軍事能力が神がかったのだ!


1559年頃には豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の6カ国に渡り、広大な領土を有した大友家。
大友家の猛烈な勢いが感じられます。





我が大友家が
九州最強の大名よ!
そして、名実ともに「九州6カ国の守護」となった大友家。



大友家は、九州六カ国の守護。
九州最強なのだ!
信長が桶狭間の戦いで一気に世に出てくる頃、龍造寺家をも従属させていた大友家。





ワシは、
大友家の家臣ではないが・・・



まだまだ力不足ゆえ、
従属し、雌伏していたのだ!
のちに「肥前の熊」と言われ、北九州で大暴れする龍造寺隆信すら従えていた大友家。
石高にして、180万石程度に迫る勢いであり、九州の地の利を活かして貿易もしていました。
この頃、日本で最強大名の最有力だったのが大友家でした。
大友家は巨大な版図に大きな経済力・鉄砲など最新鋭の兵器を持ちました。
さらに、立花道雪ら優れた武将たちを抱え、隆盛期を迎えます。
この時点では、関東を席巻した上杉氏、中国・九州地方の毛利氏と並びます。
そして、戦国三強の一角となっていたといえます。
毛利家の思惑:北九州睨む元就


ここで、大内家を倒し、一躍中国地方の雄となった毛利元就。
その毛利の視線が、九州に向かいました。



瀬戸内海から、
関門海峡の制海権を握れば・・・



日本海から、九州への
海路を独占できる・・・



広大な流通経路を制圧すれば、
毛利は益々栄えるだろう!
毛利の視線が北九州に向いた時点で、毛利と大友の戦いは避けられませんでした。
ここで毛利と大友が「お互いの背後を固める」同盟を締結していたら、戦国時代の様相は大きく変わったでしょう。


武田・北条・今川の甲相駿三国同盟のように、



大友と同盟結んだから、
我が毛利は東へ!
毛利は中国地方へ、



毛利と同盟結んだから、
我が毛利は南へ!
大友は九州地方を攻めていたら、戦国の歴史は全く違ったものになっていたでしょう。
そして、大友と毛利の衝突の時期が近づいてきました。



立花道雪は、
手強い存在だ・・・



だが、我が息子達も
優秀だ・・・


なんと言っても、毛利家には毛利元就の次男・吉川元春、三男・小早川隆景という優れた武将がいました。





大友の家臣達も
強力だが・・・



元春と隆景が組めば、
勝てるだろう・・・



そして、なんといっても、
まだこのワシが健在だ!
こう考えた毛利元就。
大友と毛利の衝突:筑前での戦い


この時点で、上杉家・毛利家・大友家それぞれの人材の総力は甲乙つけがたい状況でした。
後世の評価は、毛利元就・上杉謙信の方がはるかに高い大友宗麟。
1560年頃の宗麟は進歩的で政治的才能も高く、元就・謙信とも伍す存在でした。
1560年頃は立花道雪は50手前で、戦国期の感覚では「高齢」と言って良い年齢です。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
立花道雪 | 1513年 |
大友宗麟 | 1530年 |
毛利元就 | 1497年 |
武田信玄 | 1521年 |
上杉謙信 | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
ここで毛利・大友双方が矛を収めて入れば、もう少し安寧とした人生が送れたかもしれません。
それとは裏腹にこの後、毛利と大友は北九州を舞台に長年の死闘を演じることとなります。



我が調略で、
筑前の国人達を大友から引き剥がしてやろう!
毛利元就の調略によって、筑前の国人たちの離反が相次ぎます。



敵を倒しても、
またすぐに敵が出てくる・・・
毛利元就の深謀によって、北九州は「モグラ叩き」のような状況になりました。



この道雪が、大友家に敵するものを、
全て叩き倒してみせる!
そして、立花道雪は北九州の戦場を猛烈に駆け回ることになります。
まさに「大友家の鬼」として、北九州各地を戦い続けたのでした。
大友家と島津家:鎌倉以来の守護・島津


後の幕藩体制から明治維新にかけて、九州で最強・最大の島津薩摩藩が、九州において最重要な位置を占めます。
薩摩は海の南から琉球などを通して、世界と繋がります。
長崎・出島と並び、薩摩が「外国との窓口」となっていきます。
ところが、まだその島津家は内部抗争に明け暮れており、南九州の小大名に過ぎなかったのでした。



我が島津家は、鎌倉以来の
守護である名家だ!
戦国のこの頃、外国との窓口・南蛮船との貿易などに関しては、



博多の港に
南蛮の船がどんどんやってくる!
南九州よりも北九州の方がはるかに比重が高かったのです。
そして、九州の政治的・軍事的重心は、大きく北側に寄っていたのでしょう。
その意味で、「九州で毛利・大友が死闘を続けた」のは必然でした。
「西の川中島合戦」とも言える毛利・大友戦。



この道雪の采配で、
毛利めを叩き潰してみせよう!
そして、武雷神・立花道雪は、大友家の戦場の最前線での総司令官的立場で奮闘します。
次回は上記リンクです。