本能寺の変 22〜信長の将来構想 2〜

前回は「本能寺の変 21〜信長の将来構想 1〜」の話でした。

織田 信長と明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

日本の中心である近畿地方を、ほぼ全て制圧していた織田家。

本能寺の変が勃発した1582年3月には、東の武田家を滅ぼし、北条家の従属が確たる姿になりました。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

徳川家康に駿河を与え、尾張・美濃からグーッと勢力圏を大きく伸ばした織田家。

石高としては武田家旧領130万石ほどアップです。

石高では大きな増進ですが、商業による経済力を考えると、織田の力の増加は限定的です。

しかし、「織田家の対抗馬」として最有力だった武田家が滅亡した事実は大きいです。

そして、面積として「織田の領土が急拡大」した事実。

正親町天皇(Wikipedia)

朝廷に無理難題を押し付けてきた信長に対して、正親町天皇は「信長の将軍就任」を拒否していたと言われています。

信長の影響力が
絶大なのは分かる。

しかし、平氏を名乗る信長を
征夷大将軍には出来ん!

征夷大将軍は
源氏でなければ!

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「源平交代」の思想から、
私が征夷大将軍就任がふさわしい。

これを拒否し続けた正親町天皇は、

太政大臣では
どうだろうか?

まだ武田も
おるしな。

出来星大名であった織田家とは、家柄において比較にならないほど高かった武田家。

武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

守護代の織田家の「三人の家老」の一つだった信長の織田家。

対して、武田家は代々守護の家柄であり、清和源氏の流れを汲みます。

そして、源義光を始流とする甲斐源氏の宗家だった武田家。

源義光(Wikipedia)

本当は、世を治めるのは、
武田家の方が良いのだが・・・

長篠の戦いで大打撃を被った武田家でしたが、まだまだ力は強かったのです。

そして、なんといっても「甲斐源氏の宗家」であり、武田信玄以来の武名が轟いていました。

信玄亡き後、「ピンチヒッター的立場」であり「当主ではない」立場だった武田勝頼。

戦国大名 武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田の力を
天下に知らしめる!

愚将と言われがちな勝頼でしたが、戦闘能力はかなり高く、武田家は勝頼の代に最大版図となりました。

1580年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)
徳川 家康(Wikipedia)

武田の力が
強すぎる・・・

あまりに猛烈な武田家の力に、徳川も北条も肝を冷やしたのでした。

武田を滅ぼした織田家に対して、正親町天皇は、

信長に将軍になってもらうのも、
やむをえん。

ついに将軍か!

そして、その日本=織田幕府的支配をどうするか?を考えていたであろう信長。

まずは朝廷との関係が先でしょう。

宿老・重臣とは言え、家臣に対しては、信長は「命令すれば」終わりです。

それまでに、数多くの家臣に背かれてきた信長。

松永 久秀(Wikipedia)

天下統一後に謀反することは、家臣側が滅亡するのは明らかなので、考えられなかったでしょう。

宿老含め
抜本的な国替をするか・・・

この場合、「宿老は遠方に飛ばされ、織田一族・近習たちが近畿一帯の国を領する」方向になる可能性もありました。

そして、こじれていた朝廷との関係をどうするか?

もう一つ、信長は考えるべきことがありました。

前将軍 足利 義昭(Wikipedia)

ほとんど権力がないと思われるものの、まだ将軍であった足利義昭。

毛利家に保護され、毛利輝元を副将軍とし、備後の鞆にいて「幕府のような組織」を継続していました。

義昭を追放したが、
全国統一後は、どうするか?

その「鞆幕府」との関係もまた大事であり、信長が考えるべき、決定すべきことは山積みでした。

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