前回は「明智光秀 3〜明智光秀と鉄砲:鉄砲伝来の地・種子島門倉岬・織田家における光秀と鉄砲・長篠の合戦と明智光秀〜」の話でした。

鉄砲をかき集める信長:鉄砲の集中運用

「鉄砲の明智」にしては、なぜか長篠の合戦に出陣していない明智光秀。
織田軍が、「3000丁の鉄砲を持って合戦に臨んだ」ことには諸説あります。
実際には、1000丁程度だったかもしれません。
いずれにしても、総力を上げて鉄砲を諸方からかき集めることを命じた信長。


1丁でも多く、だ!
鉄砲が合戦を決めるのだ!
各方面に敵がいて、本願寺・一向一揆に最も手を焼いていた織田家・織田信長。
「最大の敵」と言われる武田家を粉砕することは、最重要課題だった織田家。



とにかく、
鉄砲をかき集めよ!



信玄亡き今こそ、
武田に痛恨の打撃を与える!
信長は、織田家の鉄砲をかき集め、近畿の筒井家などに対しても、



とにかく、近畿での戦いよりも、
今は武田!



近畿方面の合戦は、武田に打撃を与えるまでの間、
進行が遅くなっても、構わん!
さらに、堺などでも大量に発注をして、鉄砲を揃えたでしょう。



とにかく、集中することが
大事なのだ!
「戦力は集中して運用する」という「戦略・戦術の最も基本」を大事にする信長。



何事も
基本が大事なのだ!
この「鉄砲の集中運用」は、信長の醍醐味でした。
この点において、「空母の集中運用」を先駆けて実行した日本海軍と類似性があります。
第二次世界大戦・太平洋戦争において、「補助戦力」だった空母を主軸とした航空艦隊。


馬防柵は信長でなくても考えられますが、「数多くの鉄砲を限界まで長篠に集中」した信長。
この点こそが、信長の軍事的才能が輝いた瞬間でした。
長篠の戦いでの役割:「鉄砲の明智」


それにより「数は確保できた」としても、やはり鉄砲隊を指揮する熟練の指揮官は非常に大事です。
ほぼオールスターで、乗り込んできている武田家。


織田家も、オールスターで臨みたい気持ちであったでしょう。



織田家の主力を
すべて結集せよ!
滝川一益らがいるとしても、鉄砲隊メインであれば優れた指揮官は、全て揃えたい信長。
世に知られている「鉄砲3段打ち」は、後世の創作の可能性もあります。
実は、徳川家の酒井忠次が大きく迂回して、武田家の背後を奇襲していたことが大きなポイントです。
武田家の退路を断つ作戦に出たのです。
勝頼様!
徳川軍に鳶ヶ巣山砦を落とされました!



なんだと!
それでは「退路が断たれた」ではないか!





前に突進して、
織田・徳川を倒すしかない・・・



勝頼めが
考えることは想像できる・・・
まさに「信長の思う壺」に、ハマってしまった勝頼。
少なくとも武田家の強力な騎馬隊に対して、信長は鉄砲隊をメインとして対抗したのは事実でしょう。
そうでなければ、「大勝する」のは難しい状況であったと思います。
長篠合戦図屏風で滝川一益・佐々成政・前田利家らが鉄砲隊を指揮していた様子が描かれています。




荒木村重は、もともと摂津がメインで「西側の要」の役割をしていました。
なぜ、「鉄砲の明智」である明智光秀は、長篠の戦いに出陣を命ぜられなかったのでしょうか。



私には、もっと大きな
役割があるのだろうか・・・
京・山城・近畿を抑える役目:近畿管領の前触れ


長篠の合戦において武田勝頼が15,000人ほどの軍勢で、対する織田・徳川軍が38,000人ほどの軍勢です。
いかに武田の騎馬隊が強くても、人数と鉄砲の上では十分と考えられます。
当時の信長の版図は美濃が本拠地ですが、京・山城は戦略上最重要拠点です。
四国までその勢力を伸ばしていますが、山城は丹波や摂津がまだ押さえ切れてません。
かつて、摂津・阿波などを押さえていた三好の残党などの軍勢が押し寄せてくる可能性があります。
武田家の騎馬隊に対する突破力として、柴田勝家は不可欠です。
信長としては武田家との決着は最重要とは言え、自ら長篠方面へ出陣する必要があります。
織田家前線かつ最重要拠点の「京の確保」に関して、不安はあったでしょう。



私が不在の間、
京・山城は大丈夫か?
対武田が最重要である一方で、



合戦前後の期間は、
なんとしても山城の守りは固めたい!
最終的に織田家最高の布陣となる「織田家オールスター」とも言える武将たちに出撃を命じます。
そして、なんと言っても重要なのは、信長自らも出馬したことでした。
ところが、信長には「気になること」が山積していました。





足利幕府は潰したが、
まだ2年しか経ってない・・・



というか、形式的には、
義昭はまだ「現将軍」だ・・・
後世「大したことがない」と考えられがちな、足利義昭将軍の室町幕府。
それは、「信長よりの視点」に過ぎず、長篠の合戦の1575年のわずか7年前の1568年。
信長は、「足利義昭・新将軍」を奉じて、京・山城・近畿を席巻したのでした。



義昭のことは、
侮れん・・・



朝廷との
関係も大事だ・・・



軍事も政治もできるのは、私以外には、
あやつしかおらぬ!
そして熟慮の結果、明智光秀は長篠に行かせなかったのでした。



光秀よ!
私の代わりに京を押さえよ!



ははっ!



この光秀にお任せを!
武田家に致命傷を与える覚悟で長篠に乗り込む信長。
自身が東に行っている間の西の固めを、光秀に託したのでした。
のちに「近畿管領」と言われる存在となった光秀。
その萌芽は、すでにこの頃にあり「織田家の中枢を押さえる人物」として、光秀は飛躍したのでした。