前回は「羽柴秀吉 11〜中世の「民衆パワー」と合戦 2〜」の話でした。

金ヶ崎の退却戦で、鮮やかな采配を振るい、見事に朝倉・浅井連合軍を撃退した秀吉。

私は、調略だけが得意なのでは
ない!



権六(柴田)ほどではないが、
野戦もこなせるのだ!


この後、「姉川の戦い」などを経て、信長によって滅亡させられる朝倉義景率いる朝倉家。
朝倉義景の無能さ・優柔不断さから朝倉家に対する評価は、かなり手厳しい。
しかし、当時の朝倉家は、90万石程度の経済力と北陸の強兵が大勢いる強敵でした。


浅井・朝倉で120万石を超える経済力があり、北陸・近江兵は強兵揃いです。
その中、なんとか織田家の殿を勤め上げた秀吉。



敵地からの退却は
大変な苦難であった。



実は、
結構危なかった!
殿を見事こなすために、おおいに活用した「伏兵」という大勢の羽柴軍。
信長から預かっている「織田家の正規軍」もいましたが、蜂須賀小六らが率いる川並衆なども大勢いました。


実質的には、傭兵などの「民衆」に近い軍団だったのでしょう。
それらの多くの傭兵部隊に金銭を約束し、働かせたのであろうと考えます。



働き者には、恩賞をはずむぞ!
その「伏兵」軍団には傭兵だけではなく、金銭目的の勇敢な百姓もいました。
そして、率先して旗や幟を振る役割を、果たしたと考えます。
「民衆が国の根源であり、民衆が国をつくる」ことを理解していたのは、秀吉だけではありません。
当然、信長も信玄も重々わかっていたことでした。
しかし、「民衆のパワーを活かそう」と考えたのは、当時は、秀吉以外にはいなかったのです。


善政で有名な北条氏康。
氏康は、飢饉の際などに徳政令や減税を実施します。



民衆が、他国へ行って
しまわないようにするのだ!
民衆が、北条領内に留まるように、大きな配慮をしました。



民衆こそが、国の根本!
しかし、基本的に民衆は「武家が管理し、徴税する対象」であったのです。
その民衆の力を最もよく知っていたのが、秀吉だったのでした。



民衆は、働いて
税金を納めてくれるだけではない!



軍事力にもなるのだ!