福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館〜朝倉義景の世界的視点・島津と組んで琉球貿易・一乗谷の古い街並の模型・浅井朝倉と織田の死闘〜|越前一乗谷1・朝倉家の夢の跡

前回は「ポルトガル船が漂着した門倉崎〜鉄砲伝来の真相・日本の歴史に「最も影響与えた島」種子島・とても美しい門倉崎・青い海と緑の自然と白い雲〜」の話でした。

目次

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館:朝倉家の夢の跡

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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

福井県・滋賀県周辺を旅した際に、一乗谷に行きました。

信長の岐阜・安土なども、とても魅力的ですが、一乗谷は「街全体が復元されている」のが特徴的です。

以前から、ずっと訪問したかったですが、一乗谷朝倉氏遺跡博物館が新たに出来た機会に訪問しました。

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戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

戦国時代に、織田信長と死闘を演じた戦国大名 朝倉義景。

信長の織田家如きとは、
我が朝倉家は格が違う!

同じ斯波氏を守護として、「斯波氏の補佐役」であった朝倉家と織田家。

朝倉義景の朝倉家は越前守護代でした。

対して、織田信長の織田家は、尾張南半国の守護代織田家の三家老の一つの家柄。

ふん!
家柄がなんだと言うのだ!

かなりの大国であった朝倉家は、信長を散々悩ました強力な国家でした。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
朝倉義景1533年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年(新歴史紀行)

織田信長と一歳しか違わない「同年代」の朝倉義景。

信長より、
私の方が一歳上なのだ!

斯波家のことに加え、この「同年代」であったことが、

信長なんかに
負けてたまるか!

義景をして信長に対する「異常な敵対心」を掻き立てたのでしょう。

そして、信長によって滅亡させられた朝倉家。

「朝倉家の夢の跡」がある一乗谷の訪問は、とても楽しみです。

まずは、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館を訪問しました。

ちょうど、朝倉義景に関する企画展が行われていたこともあり、遺跡訪問の前に博物館へ向かいます。

一乗谷の古い街並の模型:浅井朝倉と織田の死闘

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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

内部は落ち着いた雰囲気の展示で「朝倉家の世界」が楽しめます。

とにかく「愚将扱い」されることが多い朝倉義景。

「信長の野望」や「天下統一」シリーズなどの戦国時代のゲームでは、朝倉義景の能力は異常に低いです。

私は
そんなに愚か者ではないわ!

朝倉家でプレイすると、あまりに能力が低い義景が邪魔なので「いない方が良い」存在です。

私は、信長めを
悩ませ続けたのだ!

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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

これからゆく一乗谷の古い街並みの模型が、とても良いです。

この海から離れた「谷間のような土地」で長く栄えた朝倉氏。

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戦国大名 浅井長政(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

私も一緒に
信長を倒します!

当時、従属化していた説が有力な江北の浅井氏と共に、中期の織田家と対峙しました。

浅井と
一緒に信長を討つぞ!

一時は「信長包囲網」となり、本当に「滅亡の危機」に陥った信長。

おのれ・・・
朝倉め・・・

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延暦寺:阿弥陀堂(新歴史紀行)

この頃は、延暦寺とも組んで、織田家を「滅亡寸前」まで追い込んだ朝倉家。

とにかく信長を
倒すのだ!

私はあいつが
気に食わんのだ!

それほど愚将とは思えない義景ですが、少なくとも軍事的センスは大きく欠けていたでしょう。

ここで一気に義景が越前勢を率いて、織田軍に突進していたら、歴史は変わったかもしれません。

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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

博物館内部には、栄華を極めた朝倉家の建物の復元もあります。

このような御殿のような建物を建て、維持するほどの大勢力であった朝倉家。

一気に、
義景を潰す!

この後、反転攻勢に出た信長に一気に滅亡させられました。

・・・・・

朝倉義景の世界的視点:島津と組んで琉球貿易

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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

ここで、とても気になる展示がありました。

朝倉義景と島津義久の間の書状です。

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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館(新歴史紀行)

どうやら、朝倉義景が本気で琉球貿易を考えていたようで、

琉球貿易を行い、
経済力を高めて、最新文化を入れたい・・・

そのためには、琉球を支配する
島津に協力してもらわねばのう・・・

義景は島津義久に「琉球貿易の申し入れ」を行いました。

ここで、いかに遠方とは言え、「貿易の旨味を分ける必要がない」はずの島津家。

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戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

それは
断るごわす!

と出てくるのが本来の姿でしょう。

ところが、

越前の
朝倉家か・・・

まあ、よか・・・
一緒に琉球貿易しようぞ!

と朝倉義景に対して、島津家は「応諾」の返答をしていたようです。

これは、島津家が鎌倉時代初期に「越前の守護だった」ことも影響しているのでしょう。

おいどん達の
発祥の地である越前・・・

その越前の有力な
大名である朝倉家と組めば・・・

日本海の流通を
島津も得ることが出来るかも・・・

という「島津側の思惑」もあったのでしょう。

いずれにしても、「日本の中央」の近畿圏にありながら「日本の端」の琉球に目をつけた義景。

そして、

本気で島津と共に
琉球貿易するぞ!

と考えた義景は、世界的視点を持っていた人物とも言えそうです。

次回は、一乗谷朝倉氏遺跡を訪問した話のご紹介です。

次回は上記リンクです。

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