前回は「羽柴秀吉 10〜中世の「民衆パワー」と合戦 1〜」の話でした。

金ヶ崎退却戦において、秀吉は用兵巧みに戦い、浅井・朝倉軍を退けました。
それまで、「調略がメイン」の役割とも言えた秀吉。
この退却戦で、非常に優れた軍事的才覚を見せます。

対客船において、「光秀が加勢した」という説もあります。

この金ヶ崎の退却戦が起きたのは、1570年です。
光秀が、信長の元に「足利将軍家の使者」としてに岐阜に行った1568年から、まだ2年後。
グングン頭角を表す明智光秀ですが、まだ光秀の立場はそれほど高くありません。

私は、
足利義昭様の家臣でもあるのです。
光秀は、足利家と織田家の「両属的立場」でした。
まだ、「木下藤吉郎」だった羽柴秀吉。
まだまだ身分は高くはないとは言え、10年以上信長に仕えています。
「家康が協力した」というのも諸説あり、「一部の部隊が加勢した」くらいかと思われます。


光秀や家康の協力があったかもしれませんが、中心となるのは羽柴軍です。
秀吉は、蜂須賀正勝らと相談して、「留まっている織田軍が大軍勢いる」と見せる策に出ます。



我が軍が大軍であるように、
見せるのだ!





そういう作戦は、
俺たち得意だぜ!
この策は、退却戦においては非常にオーソドックスで、基本とも言える戦術。
たくさんの旗や幟を用意して、多くの「伏兵」が一斉に鬨の声をあげさせます。
そして、「大軍がいるかの如く」見せかけて、主力の朝倉軍を翻弄したことが大事なポイントです。


この頃の朝倉家は、若狭武田氏も併呑したため、90万石程度の経済力がありました。
さらに、真柄直隆などの優れた武将が北陸の強兵を率いた「手強い存在」でした。


しかし、あまり戦闘的ではない朝倉義景は、手ぬるい追撃戦を行います。



わざわざ、追うほどのことは
あるまい。



敵の大将が、凡庸で良かった。
朝倉義景が凡庸だったこともあり、秀吉は九死に一生を得るのでした。