前回は「民衆の力を駆使した秀吉〜謎多き桶狭間の合戦の真相・根拠なき「信長の奇襲攻撃」・織田家と今川家の実力・約100万石の超名門今川家・大勝利を「宣伝したはず」の信長〜」という話でした。
西上作戦の今川義元の狙い
1554年頃から織田家に仕え始めたと言われる羽柴秀吉。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
織田信長 | 1534年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
その前に、松下嘉兵衛に仕えていたことはほぼ間違いない事実であり、1554年は秀吉が18歳(数え年、以下同)です。
信長の父である織田信秀は周辺を暴れまわりましたが、1551年に卒中で急死しました。
そして、すでに若き21歳の信長が織田家の当主でした。
1554年頃の織田家は、まだまだ内部抗争の最中であり、優れた人物は一人でも多く欲しかった信長。
優れた人物は
どんどん召し抱えるぞ!
「優れた人物が欲しい」のは、どこの大名家も同じでありましたが、特に現金を多く持つ織田家は、
誰でも良いから、
余のため励むものは来い!
だったでしょう。
1554年に信長に仕え始めたとして、秀吉の明確な活躍の記録は少ない状況です。
そして、とうとう今川義元が満を持して、25,000名の大軍勢を率いて尾張に乗り込んできました。
公称100万石の今川家は、尾張にも領土を持っていたので、実際90万石以上はあったと考えます。
すると、もう少し後の「4万石で1,000人動員」の基準から考えると、最大の大動員をした今川家。
「桶狭間の戦いで油断していた今川義元は愚将」という評価もあります。
ところが、これまでの義元の生き方を見ると、大大名の当主たる能力をもつ人間でした。
我が今川の領土を
拡大するのだ!
従来、今川義元の目的は「京へ上洛」という説が有力でした。
まずは
尾張と三河を固める!
近年は「尾張周辺の領土拡大」が主目的という説が有力です。
実際、この頃の今川家は甲相駿三国同盟によって後方が守られていたとは言え、上洛する能力はなさそうです。
長年、織田信秀と三河・尾張で死闘を繰り広げてきた今川義元は、
評判が悪い「うつけ」の信長を倒して、
尾張を今川の領土に!
が主目的だったでしょう。
民衆の力に目覚めた羽柴秀吉:今川本陣を手中に
とにかく、
奇襲攻撃だ!
後詰めや援軍が期待できない中、奇襲攻撃を目論んでいた信長。
配下の簗田政綱から、
今川義元の本陣は
田楽狭間!
という諜報を得て、信長は2,000名ほどの手勢を率いて、奇襲・突撃して勝利を掴んだとされます。
育ちが良く、民衆の底力は知る由もなかった今川義元。
民衆のパワーに足元をすくわれ、思いもがけない大敗北を遂げて討死します。
ま、まさか・・・
こんなことになるとは・・・
ここで、義元たち本陣が「地元の民から食事や酒をもらったため、宴会をした」説が有力です。
これは、羽柴秀吉中心の「民衆の力」を駆使した戦術だったでしょう。
私は尾張の民たちの気持ちが
よく分かります・・・
「民衆の力」を
最大限に使いましょう!
よしっ!
猿よ、やってみせよ!
そして、桶狭間において、若き秀吉は彼しか持ち得ない民衆のパワーを駆使した秀吉。
今川軍を分断し、本陣を他の諸隊から遠ざけるように暗躍した一人だったでしょう。
「信長の奇襲を成功させる」大きな一因を、秀吉率いる「民衆部隊」が作ったように考えます。
織田家を選んだ秀吉の慧眼:軍勢と農民と民衆
秀吉は織田家の将来を大きく発展させる、極めて大きな軍功を挙げました。
当時、西の今川と北の斎藤という巨大勢力に挟まれていて「両方とも不倶戴天の敵」だった織田家。
現実としては、かなり厳しい状況にいたのが1560年頃の織田家でした。
鮮やか過ぎるほどの勢いで、今川軍の根底から突き崩した信長。
後の織田家の脅威的な勢力拡張を知っている後世から見れば、「当然」のように見えます。
ところが、今川軍をこれほど鮮やかに倒さなくても、今川との戦いがこう着状態に陥った場合、大きな危険がありました。
信長の尾張の北に強敵・仇敵がいました。
俺も
信長は大嫌いだ!
もし、今川軍と呼応して北から斎藤義龍が攻め込んできたら、織田家は完全にアウトでした。
ここで、信長の際立った軍事的才能とカリスマに加えて、
今川が25,000の軍勢と言っても、
内情は農民が多いのだ!
そして、尾張にいる民衆は
25,000より遥かに多い!
そして、民衆の力をフル稼働させて、信長の最大の窮地を救った一人が秀吉だったと考えます。
猿の考えた
「尾張の民衆の力」は絶大であった!
それほどの大きな軍功をあげない限り、秀吉の出自や背景を考えると織田家における急な出世は不可思議です。
数多いる家臣からまるでピンポイントのように秀吉を引き上げた信長。
猿めは、
非常に優れた特殊な才能がある。
神がかった能力をもった信長としても、そのくらい際立った軍功がないと、こうはならないでしょう。
秀吉の特殊な能力・技能は当時「秀吉のみ保有する」特殊能力で、日本で唯一つでした。
様々な経験をし、諸国を歩いた上で自分だけの特殊能力を発見した秀吉。
そのためには、生まれながらの才能と「地べたを這いずり回った経験」が必要でした。
身分が低かったからこそ、
分かることがあるのだ!
そういう人間は当時、「秀吉しかいなかった」のでした。
それを活かせる主君として、信長率いる織田家に白羽の矢をたてます。
そして、桶狭間・田楽狭間の戦い以降、メキメキ頭角を表します。
諜報・情報を非常に重視したのは、他に武田晴信(信玄)などいます。
秀吉は、主君として晴信も検討したでしょう。
武田家は発展しそうだが、
守護出身だけに、私は重用されないだろう・・・
仮に秀吉が晴信に仕えたところで、織田家における秀吉のような出世は考えられないでしょう。
晴信は非常に保守的で、とても「身分を問わずに登用」という状況ではありませんでした。
後世から見れば傑出した「超天才」とも言える織田信長。
若き頃の信長を「見出した人物」は非常に少ないです。
斎藤道三が非常に高く評価した逸話もあります。
信長はうつけなどではなく、
天才だ!
わが 息子たちは、
あやつの家臣に組み込まれるだろう。
一方で、この「異常に高い評価」は信長が「娘婿」であることは割り引いて考えなければならないでしょう。
さすがは、
わしの娘婿!
信長様こそ我が主君に!
そして、信長様をおいて、他にはいない!
と「信長を選んだ」秀吉。
さすがに神のような慧眼の持ち主でした。
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