中世再興を目論んだ「中世の権化」武田信玄〜異常に強力に描かれる武田四天王・最強武将のイメージの真田昌幸と真田幸村・信玄の理念と中世〜|武田信玄1 ・出身・出自・性格

前回は「智清将・竹中半兵衛の義挙の真相〜「和製孔明」の卓抜たる軍略・稲葉山城乗っ取り・たった17名で城攻め〜」の話でした。

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
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異常に強力に描かれる武田四天王

武田四天王:左上から時計回りに山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊、馬場信春(Wikipedia)

今回は、武田信玄です。

「歴史好き」「戦国好き」の方ならば、光栄(コーエーテクモ)の「信長の野望」をプレイした方が多いでしょう。

あるいは、システムソフトの「天下統一」シリーズも人気でした。

「信長の野望」シリーズは多々あり、それぞれにカラーがあります。

その中で一貫した特徴はあり、その一つが武田信玄及び武田家の武将の「超強力さ」です。

特に戦闘力・軍事能力に関しては、異常な強さを持つ武将が多士済々。

「少し優遇しすぎではないか?」と思ってしまうほど、粒揃いです。

武田騎馬隊は、
天下最強なり!

他の大名家では重宝されるレベルの武将ですら、後方で適当な役目しか与えられないこともあります。

そして、程々の武将は、合戦であまり「出番がない」状況で進むこともあるほどです。

武田の武将は、
戦国最強なのだ!

猛烈に強い武将と騎馬隊を率いる武田信玄。

そして、「戦国最強」と謳われた、その屈強かつ極めて有能な武将・司令官達。

彼らは、他の家ではなかなか見受けられないレベルの方々です。

徳川四天王:左上から時計回りに酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政(Wikipedia)

彼らと比較すると、徳川四天王ですら少し弱い感じもします。

織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(Wikipedia)

他家でも四天王等いますが、織田家の四天王である羽柴・明智・柴田・滝川しかないでしょう。

山県・馬場・内藤・高坂(春日)の武田四天王に匹敵するのは。

最強武将のイメージの真田昌幸と真田幸村

左上から時計回りに、真田幸隆(幸綱)、真田昌幸、真田幸村(信繁)、山本勘助(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

さらに武田家につながる真田家の面々も非常に高い評価を受けています。

真田幸隆(幸綱)、真田昌幸、真田幸村(信繁)、いずれも非常に高い能力を持ちます。

中でも真田昌幸、真田幸村(信繁)は「最強ランク」の武将で表現されています。

家康など、
敵ではないわ!

確かに真田昌幸、真田幸村(信繁)は非常に有能な武将であり、徳川を何度も撃退した人物。

一方で、影響力は限定的であることも事実であり、あの異様に高い評価は「心情的」なイメージが強いでしょう。

家康の首を獲るのだ!
突撃!

小大名でありながら、徳川・大大名たちを翻弄し続けた真田家。

そして、その最後の散ってゆく雰囲気もまた、切ない感じです。

謎の人物とも言われる山本勘助も、一貫して高い能力が与えられています。

最後に、
織田信長を倒して、京へ武田の旗を!

と、武田信玄は1573年に西上作戦を決行します。

「西上作戦」の真の目的は諸説ありますが、別の機会に考えたいと思います。

この西上作戦の途中で、

いよいよ、
ワシも・・・

亡くなってしまった武田信玄。

いわば「志の途中」でなくなってしまった信玄に対しては、同情的な要素が強くあります。

そして、武田四天王を含む武田家の武将たちが「典型的な武士らしい」雰囲気であること。

このことも、この「異常に高い評価」につながっています。

中世再興を目論んだ「中世の権化」武田信玄:信玄の理念と中世

武田信玄と織田信長(新歴史紀行)

織田信長と対比的に扱われ、「非常に保守的だった」と言われる武田信玄。

彼が「保守的」だったのは、当然でもありました。

我が武田は、
清和源氏に発して・・・

そもそも、甲斐守護の
名家なのだ!

戦国大名化した諸大名の中でも、島津と並んで「鎌倉以来の名家」の武田家。

その信玄は性格もあるでしょうが、保守的にならざるを得ませんでした。

この肖像画にもあるように、武田信玄はどことなく暗いイメージがあります。

それは実の父親・信虎を追放し、長男の義信を自刃に追い込んだ(病死説もあり)ことに多くはよるでしょう。

武田信虎(Wikipedia)

強烈なパワーとそのド迫力で、戦国に君臨し続けた武田信玄。

私は世の中を、
あまり変えるのは好きではない!

中世の世の中は、
居心地良いではないか!

足利幕府が衰退し、中世の世の中が終焉を迎えつつあることを、多くの大名が体感していました。

その中、武田信玄の発想は中世重視で、あくまで「体制側」であり続けました。

武田家のためには、「長男を消す」ことも厭わなかった武田信玄。

どことなく暗い武田信玄は、中世再興を目論んだ「中世の権化」と呼んで良いでしょう。

新歴史紀行

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