前回は「羽柴秀吉 6〜桶狭間の戦いの謎〜」という話でした。

謎ばかりの桶狭間の合戦。
大勝利した信長にとっては、大いに喧伝したいくらいで、真相を隠す必要はなさそうです。

後の信長の性格から考えると、そういうことを喧伝することに信長は興味がないようにも考えられます。
桶狭間当時の織田家は一定のレベルであっても、武田・上杉・毛利・大友・三好等より強力な大名がたくさんいました。
自己の能力を宣伝し、「信長率いる織田家こそ頼りになる」と周辺諸国の大名・国人に思って欲しい信長。


この私、
織田家の名声を高めたい!
同時代の武田信玄や毛利元就らの有力大名も驚愕したであろう、この戦い。





まだ20代の若造が、
やりおる!
桶狭間の真相は、織田家以外のどこかに記録されていてもおかしくないと思います。
なぜ真相が、わからなくなったのでしょうか。
「のちに最高権力者となった秀吉が、真相が分からないように指示した」と考えます。



桶狭間の戦いの時の、私の活動は、
あまり大っぴらにしたくない。



当時のこの秀吉の動きは、
秘密にしたいのだ。
その理由は「自分がどのような役割をしていたか」をあまり表に出したくなかった、表に出ては困るからだと考えます。
今川家の戦力が分散していて、奇襲攻撃を仕掛けたました。
そして「織田の動員兵力と今川本陣の兵力がほぼ拮抗した結果、織田の勝利へと結びついた」というストーリーです。
簗田政綱が「今川本陣の居場所を信長に知らせた」のは事実でしょう。


三河〜尾張にかけてのそれほど広く無いエリアに、「25,000もの今川軍の大軍がいた」のです。
このことを考えると「本陣だけが他の隊からかなり離れていた」というのは不自然過ぎるのです。
秀吉と蜂須賀等の民衆が「陰で動いていた」のが、桶狭間・田楽間の戦いの非常に大きな鍵になったと考えます。