前回は「織田信長と羽柴秀吉の謎〜桶狭間の戦いの謎・謎に満ちた今川義元の本陣の位置・三人の天下人が全員関与・情報を集めた形跡がない武田信玄・山本勘助の「桶狭間」への関与説〜」という話でした。
謎多き桶狭間の合戦の真相:根拠なき「信長の奇襲攻撃」
謎ばかりの桶狭間の合戦。
ところが、「今川義元の本陣」の位置も定かではありません。
さらに、長年信じられてきた「信長が大きく迂回して奇襲攻撃した」説も根拠が薄弱です。
最も信頼性が高いとされる「信長公記」には、奇襲攻撃に関しては全く触れていません。
大勝利した信長にとっては、大いに喧伝したいくらいで、真相を隠す必要はなさそうです。
後の信長の性格から考えると、そういうことを喧伝することに信長は興味がないようにも考えられます。
桶狭間当時の織田家は、一定のレベルではありました。
とは言っても、守護・守護代ではなく「守護代の家老」の家柄であり、勢力圏も限られていた当時の織田家。
武田・上杉・毛利・大友・三好等より強力な大名がたくさんいました。
この時、超強敵に対して合戦で「大将首を取る」という大勝利をした大名ならば、
我が軍が、
敵の大将首を取って、潰走させた!
と大いに宣伝したいはずです。
織田家と今川家の実力:約100万石の超名門・今川家
太閤検地の際の石高は、下記の通りです。
国名 | 石高 |
尾張 | 57万石 |
三河 | 29万石 |
遠江 | 25万石 |
駿河 | 15万石 |
尾張一国で圧倒的な石高を持っていた織田家。
1560年の今川家の尾張侵入直前に「尾張統一」を果たしたと言われる信長ですが、国内は定まっていませんでした。
そもそも、尾張上四郡を支配した「岩倉織田家」を打倒した、尾張下四郡を支配した「清洲織田家」出身の信長。
長年、二つの家に別れて抗争を続けていたので、「統一」と言ってもしっくりこないのが現実でしょう。
足利家に後継がいない時は、
三河の吉良家、ついで駿河の今川家から将軍を・・・
と言われた「超名門」の今川家。
尾張内部でも、
やっぱり、信長じゃダメだから、
今川に従おう・・・
という勢力が一定数いたはずで、現に今川義元に内通した城主もいました。
比較的安定していた駿河・遠江・三河と比較して、戦乱に明け暮れた尾張。
当時の織田家の実収は約30万石ほどで、残り20万石ほどは今川家と考えて良いでしょう。
すると、今川家の実力=20+29+25+15=89万石と「約100万石」となります。
商業が盛んな尾張において津島湊で水運という流通を押さえていた織田家。
「現金の出所を押さえた」織田家は、現金を多く持っているのが強みでした。
一方で、兵農未分離だった当時は石高と人口は強い相関関係があり、動員数にも直結します。
総合力として、今川家は織田家の3倍程度の力を持っていたと考えて良いでしょう。
民衆の力を駆使した秀吉:大勝利を「宣伝したはず」の信長
自己の能力を宣伝し、「信長率いる織田家こそ頼りになる」と周辺諸国の大名・国人に思って欲しい信長。
この私、
織田家の名声を高めたい!
実際は、信長はある程度宣伝したと思われます。
後世の視点から見れば、「一気に今川が凋落して、織田家隆盛のきっかけとなった」桶狭間。
ところが、一つの大きな組織であった今川家がそう簡単に凋落するはずはありません。
実際には、三河から尾張にかけて今川の残存勢力は多数いたでしょう。
それらへの対処で、信長は大変な思いをして「宣伝どころではなかった」可能性があります。
同時代の武田信玄や毛利元就らの有力大名も驚愕したであろう、この戦い。
まだ20代の若造が、
やりおる!
桶狭間の真相は、織田家以外のどこかに記録されていてもおかしくないと思います。
なぜ真相が、わからなくなったのでしょうか。
「のちに最高権力者となった秀吉が、真相が分からないように指示した」と考えます。
桶狭間の戦いの時の、私の活動は、
あまり大っぴらにしたくない。
当時のこの秀吉の動きは、
秘密にしたいのだ・・・
その理由は「自分がどのような役割をしていたか」をあまり表に出したくなかった、のでしょう。
あるいは、「表に出ては困る」からだと考えます。
今川家の戦力が分散していて、奇襲攻撃を仕掛けたました。
そして「織田の動員兵力と今川本陣の兵力がほぼ拮抗した結果、織田の勝利へと結びついた」というストーリーです。
簗田政綱が、
今川義元の本陣は
田楽狭間!
と、「今川本陣の居場所を信長に知らせた」のは事実でしょう。
三河〜尾張にかけてのそれほど広く無いエリアに、「25,000もの今川軍の大軍がいた」のです。
このことを考えると「本陣だけが他の隊からかなり離れていた」というのは不自然過ぎるのです。
秀吉と蜂須賀等の民衆が「陰で動いていた」のが、桶狭間・田楽間の戦いの非常に大きな鍵になったと考えます。
次回は上記リンクです。