前回は「羽柴秀吉 8〜民衆の力に目覚める秀吉〜」の話でした。

諸国を流浪し、東海地方周辺の国々・大名の状況を、つぶさに観察した秀吉。
当時の日本で、秀吉の能力を「十二分に評価する」可能性のある大名を探します。
その結果、

織田信長様しかいない!
と、織田家を選んで、織田家に入った秀吉。
桶狭間・田楽狭間の戦いでも、大いなる軍功を挙げます。


少し後世になった頃には、大名家を転々とする武将が登場します。
「諸大名転々組」で、最も有名な藤堂高虎。
藤堂は「自分の力量を認め、己の高い(と自分で考えている)レベルに合う主人」を転々と彷徨いました。


しかし、秀吉が信長に仕え始めた頃は、まだそういう雰囲気は少なかったように思います。
また、秀吉と藤堂高虎の大きな違いは、藤堂が武家(侍)出身であることです。
武家出身の藤堂ならまだしも、仕える以前の「身分がよくわからない」秀吉は、仕官には非常に苦労したでしょう。



私には、紹介者がいない。



針売り、など様々な職業を点々とした経験があるが・・・



大名に仕官するのは、なかなか難しい・・・
「信長を選んだ」というところが、後の天下人となる秀吉の、秀吉たる所以であると思います。





私は役立つ人材が、欲しいのだ。



家柄などに、あぐらかいている奴など、
要らない!
その前年1559年(諸説あり)に、清洲城塀の修理奉行となった秀吉の有名な逸話があります。
台風で大きく破損した塀を修理する際に、秀吉は一計案じます。
塀を分割して、組に分けて互いに競わせることで、修理を早く完了しました。


これは、秀吉の頭脳の明晰さを物語る話です。
さらに、蜂須賀小六などの「民衆」の力を、秀吉がうまく使ったのではないかと思います。


まだ「木下藤吉郎」と名乗っていた秀吉。



蜂須賀殿。ちょっと相談がある。



ああ、藤吉郎か。
なんだ?
尾張・美濃周辺の川並衆を、従えていた蜂須賀小六。
蜂須賀小六は、秀吉よりも格上の立場でした。



清洲城の塀を改修するのだが、
良い知恵はないだろうか?



それなら、褒美を与える約束をして、
競わせるのが良いだろう。



なるほど!



褒美で競わせるのは、良いアイデアだ!



さすが、野武士たち、荒くれ共を
束ねる小六だ。
当時、尾張のほぼ全土を制圧し、津島などの港を押さえ、商業的に非常に発達した尾張。
さらに、米の生産高の基準となる石高においても、日本有数の生産量を持ち、57万石ほどありました。
他国に比べて金銭収入が異常に多く、経済的に非常に恵まれた織田家。



織田には、他大名より金銭は
たくさんある!
当時、兵は専門兵ではなく、多くは平時は農民で、「戦時に駆り出された」あるいは「一儲け狙った」者ばかり。
後に、兵農分離を推進する織田家。
1559年頃の織田軍は、他の大名同様に「平時は農民」で構成されていました。



もっと、軍勢が欲しい!
蜂須賀らの正規兵ではない「民衆」の一部とも言える傭兵を「金銭で雇う」こと。
これは、織田家にとっては容易なことであり、ある意味では大変合理的であったのでした。


武田家・上杉家・北条家・毛利家などでも、傭兵を雇うことはあったでしょう。



傭兵をたくさん雇う?



軍勢は増強したいが、経済的に負担が大きすぎる。



また、情報が
漏洩しやすくなるのではないか・・・
しかし、織田家ほど大々的に雇う発想はなかったでしょう。



とにかく、力が欲しい!



まずは武力だ!



武力がなければ、始まらん!
「卓越した信長・秀吉の発想+卓抜した織田家の財力」のみ成しえたことでした。



恩賞で競わせ、塀の修理を早期に終えました!



少し金がかかっても、仕事が早く終わる方が良い!



なんでも、「早く」終わるのが望ましい!



猿(藤吉郎)の発想は、面白い!



織田には、この新しい発想が必要だ!



民衆の心は、よく知っております!



民衆をうまく活かすことにおいて、
この秀吉の上をゆく人間はいない!