織田家に仕え始めた秀吉〜民衆の底力・兵農分離以前の軍隊・清洲城塀の迅速な修理・「桶狭間の戦い」の秀吉・今川義元の本陣と今川軍〜|羽柴秀吉5・人物像・軍事能力・人生経験

前回は「商いから「人の心」を理解し尽くした秀吉〜貧しい針売りの体験・「民衆の底力」に目覚めて力の源泉へ・信長を「選んだ」秀吉・諜報と民衆と合戦・一際輝く秀吉の潜在能力〜」の話でした。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

民衆の底力:兵農分離以前の軍隊

諸国を流浪し、針売りなど行った過程で、

今は諸大名が、
力で争っている・・・

その「力の源」は、将兵であるが、
兵隊と言っても、ほとんどは農民なのだ・・・

農民たちが農閑期に、
銭稼ぎのために、戦いに行っているだけなのだ・・・

秀吉が若き頃は、「兵農分離」というコンセプトすらなかった時代。

左上から時計回りに、戦国大名 徳川家康、武田信玄、上杉謙信、毛利元就(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

我が上杉軍の中核は、
農民兵たち・・・

つまり、我が軍が最も機動力を
持てるのは農閑期だ・・・

織田家よりも家柄が上の上杉(長尾)家と武田家。

「家柄が上」だけに、その組織もまた「中世の雰囲気」を色濃く残していました。

我が武田軍もまた、
農兵中心だ・・・

合戦は、「戦争のプロ」である
専属の兵卒が戦うのが望ましいが・・・

そもそも、甲斐や信濃の人口も
米の生産量も限られている・・・

この「農兵中心の軍隊」という状態は、信長が若き頃の織田家も同様だったでしょう。

ということは、
民衆こそが、戦力・軍事力の要!

「民衆の力」に目覚めた羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)。

織田家に仕え始めた秀吉:清洲城塀の迅速な修理

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

秀吉は、自らの主人として織田信長を選び、仕官します。

1554年から1555年の頃と言われています。

信長様のもとで、
私は出世するのだ!

名前生年(一部諸説あり)
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家方面司令官の生年

なんだか猿に似ている奴が、
当家に来たが・・・

この頃、まだ20歳頃の若造というよりも、「れっきとした若者」だった信長。

織田家内部の闘争に明け暮れ、なんとか尾張の大部分をまとめるに至ろうとする時期です。

幸い、莫大な生産量を誇り、津島湊などの港湾もあり、商業も盛んな尾張。

我が家の経済力は、
かなりレベルが高いのだ!

だが、もっと優れた
家臣が欲しい・・・

まさに「人材を求めていた」信長。

それは、武田家や上杉(長尾)家、北条家も同様だったのですが、他家は門閥による登用が中心でした。

家柄なんか、
どうでも良い!

そもそも、私の家も「守護代の家老」であり、
そんな大層な家柄でもないわ!

これからの時代は、
実力なのだ!

この「信長の考え」にピタリと適合したのが、秀吉でした。

この猿みたいな奴は、
どこ出身なのだ?

はっ!
尾張のようですが、はっきりとは分かりません・・・

まあ、どうでも良い。
使えるのならば!

私、秀吉は
とても使える人材です!

清洲城塀修理を指揮する秀吉(歴史人2020年7月号 KKベストセラーズ)

台風で倒壊した清洲城の
塀の修理は、分割して競わせました!

その結果、
予定よりも早く、金額も低く収まりました!

ほう・・・
面白いことを考える奴だのう・・・

「桶狭間の戦い」の秀吉:今川義元の本陣と今川軍

今川義元(Wikipedia)

秀吉が信長に仕えてから、ずっと信長は今川義元と争ってきました。

そして、ついに1560年には、今川義元が25,000と言われる大軍を率いて、尾張へ侵攻しました。

桶狭間(田楽狭間)の戦いです。

いよいよ
今川が・・・

桶狭間(田楽狭間)の戦いの時の秀吉の活躍に関しては、詳しいことは分かっていません。

多くは、想像や創作の域を出ないでしょう。

戦前から長い間「信長が今川義元を側面から奇襲した」という説が流布していた桶狭間の戦い。

義元の奴の
本陣はどこだ!

最近は見直され、「信長軍が正面攻撃をした」という説もあります。

義元の本陣のみを
狙え!

今川義元が討たれた時、谷間にいたのか山上に陣取っていたかすら諸説あり、真相は不明です。

実態としては織田家は経済力が高く、今川家には及ばないものの当時の織田家の版図は40万石はあったと考えられます。

国内が混乱していたとはいえ、8,000人ほどの動員は可能だったようにも思えます。

桶狭間・田楽狭間の戦い図(戦国大合戦絵巻 ダイアプレス社)

仮に8,000人の動員が可能だとしても、25,000人の今川軍に対して、1/3の軍勢では敵いません。

そこで、信長は丸根砦などに「防衛のための最小限の兵力」を配置し、軍勢を分散配置しました。

兵力を集中し、
「義元を倒す」ことのみに集中!

私めもお役に
立ちまする!

猿、お主は腕力はないが、
色々なものたちを知っておるな!

ははっ!
特に尾張・美濃周辺には、知り合いも多いです!

情報を集めよ!
義元の居場所だ!

ははっ!

そして一気に軍勢を集中した信長。

簗田政綱が、

義元は
田楽狭間の本陣にいます!

よしっ!
義元の本陣を攻める!

義元本陣を攻めたことで勝利したのでしょう。

桶狭間・田楽狭間の戦い図(戦国大合戦絵巻 ダイアプレス社)

信長というと政治面がクローズアップされ、こと軍事に関しては武田信玄と上杉謙信の独壇場です。

信長は軍事的能力が極めて高く、信玄・謙信と伍します。

考えようによっては信玄・謙信以上の軍事能力を持つと思います。

桶狭間の戦いでは、柴田勝家も猛烈に突進して奮戦し、強烈な戦闘力を見せつけたと考えられます。

そして、秀吉は・・・・・。

おそらく、この頃はまだ本格化していないまでも、秀吉と蜂須賀小六らの民衆は提携し始めていたのでしょう。

蜂須賀殿、
今川の情報を集めていただきたい!

秀吉に「従う」というよりも「協力体制」を築いた蜂須賀小六らの民衆部隊。

この頃はまだ「藤吉郎」ですが、秀吉で通します。

蜂須賀正勝(Wikipedia)

ああ、
秀吉か・・・

信長様、織田家の運命が
かかっているのだ!

よしっ!
分かった!

義元の本陣は、梁田殿の部隊が
補足し続けている・・・

我らは、義元の本陣のみならず、
松平元康などの諸将の動きも把握するのだ!

「今川義元の本陣」が最も重要な情報ですが、松平軍などの先鋒部隊の位置情報等も重要です。

それらを総合的に把握しなければ、「本陣の奇襲攻撃」は不可能です。

今川軍の諸将を義元本陣から
引き離すように工作するのだ!

そして、「秀吉直轄の野武士軍団」が情報収集のみならず、影で躍動始めたのです。

新歴史紀行

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