前回は「羽柴秀吉 4〜「民衆」という底力〜」の話でした。

諸国を流浪し、針売りなど行った過程で「民衆の力」に目覚めた羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎)。
秀吉は、自らの主人として織田信長を選び、仕官します。

信長様のもとで、私は出世するのだ!
秀吉が信長に仕えてから、ずっと信長は今川義元と争ってきました。
そして、ついに1560年には、今川義元が25,000と言われる大軍を率いて、尾張へ侵攻しました。


桶狭間(田楽狭間)の戦いです。
桶狭間(田楽狭間)の戦いの時の秀吉の活躍に関しては、詳しいことは分かってなく、想像や創作の域を出ないでしょう。
戦前から長い間「信長が今川義元を側面から奇襲した」という説が流布していた桶狭間の戦い。
最近は見直され「信長軍が正面攻撃をした」という説もあります。


今川義元が討たれた時、谷間にいたのか山上に陣取っていたかすら諸説あり、真相は不明です。
実態としては織田家は経済力が高く、今川家には及ばないものの当時の織田家の版図は40万石はあったと考えられます。
国内が混乱していたとはいえ、8,000人ほどの動員は可能だったようにも思えます。


上図は桶狭間(田楽狭間)の戦いの図です。
仮に8,000人の動員が可能だとしても、25,000人の今川軍に対して、1/3の軍勢では敵いません。
そこで、信長は丸根砦などに「防衛のための最小限の兵力」を配置し、軍勢を分散配置しました。
そして一気に集めて、義元本陣を攻めたことで勝利したのでしょう。


信長というと政治面がクローズアップされ、こと軍事に関しては武田信玄と上杉謙信の独壇場です。
信長は軍事的能力が極めて高く、信玄・謙信と伍します。
考えようによっては信玄・謙信以上の軍事能力を持つと思います。
桶狭間の戦いでは、柴田勝家ももう突進して奮戦し、猛烈な戦闘力を見せつけたと考えられます。
そして、秀吉は・・・・・。
おそらく、この頃はまだ本格化していないまでも、秀吉と蜂須賀小六らの民衆は提携し始めていたのではないでしょうか。
秀吉に「従う」というよりも「協力体制」を築きました蜂須賀小六らの民衆部隊。


そして「野武士軍団」が情報収集のみならず、影で躍動始めたのです。