織田信長が天下を見据えた岐阜城天主閣からの眺め|戦国時代

前回は「織田信長と斎藤道三の岐阜城」の話でした。

いよいよ、岐阜城天主閣へ向かいます。

天主閣からの光景です。

岐阜城天主閣から 1(新歴史紀行)

山が多い美濃国の感じが、よく分かります。

天「守」閣と記載されることが多いですが、本当は天「主」閣です。

天主閣は海外、特に南蛮と言われたスペインやポルトガル等の影響を強く受けて発達した城の形式です。

文字通り、天主=デウスの象徴でした。

キリシタンの方々の扱いに手を焼いた後の徳川政権。

天「主」閣だと、キリシタンの影響が強いので、天「守」閣にしたのでしょう。

幕末維新後、士族の扱いに困った新政府が大「坂」から、大「阪」に変更します。

この時、坂の「士」編を変更したのと同じ考え方です。

おそらく大久保利通が考えたことでしょう。

大久保利通(国立国会図書館)

新しい世にするために、
武士・侍の色を消してゆくのだ!

山と山が連なっていて、一番高い金華山にあった砦に斎藤道三が眼をつけます。

そして、道三肝煎りで1540年頃に大改修した岐阜城。

周囲を見渡して見ると、斎藤道三の気持ちが少し分かる気がします。

斎藤道三(Wikipedia)

美濃を固めた人物が
天下を獲るのだ!

時代が違うので建物などは全く違いますが、地形はそれほど変わりません。

現地に行って見ると、何百年か前の雰囲気が想像できます。

岐阜城天主閣から 2(新歴史紀行)

たくさんの木の間から、長良川が見えます。

そして、長良川の向こうにまた山々が見えます。

道三や信長の頃は平家の木造の建物がたくさんあって、楽市楽座によって街が出来てきた頃です。

大きな川があって、大変広大な濃尾平野がある美濃国。

こうして眺めて見ると、当時、日本有数の57万石程の高い生産量・石高を誇ったのが、分かります。

しかし、斎藤道三を倒した斎藤義龍率いる斎藤家は頑強で、信長はなかなか美濃を攻めとれません。

斎藤義龍(Wikipedia)

信長ごときに、斎藤家は倒せん!

しかし、斎藤義龍が急死し、弱体化した斎藤家をやっと信長は倒すことに成功します。

1567年、悲願の稲葉山城奪取に成功した信長は、沢彦和尚の推薦で中国の岐山にちなんだ「岐阜」という名前を選びます。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、稲葉山城から岐阜城へと名前を変えました。

尾張と美濃で合計100万石を超える石高と、商業が繁盛している土地柄。

100万石を超え、尾張には繁栄した港もあるぞ。

織田家の経済力は、日本一だ!

さらに津島港などの反映した港を押さえていた織田家は、この時点で日本指折りの大名となります。

そして、この岐阜城から天下を見据えたのでした。

岐阜から天下を目指す!

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