立花道雪 1〜大友家の武雷神・毛利との死闘・大友宗麟・陶晴賢・毛利元就〜|人物像・性格

前回は「柴田勝家 2〜武闘派の帝王・卓抜した軍事力・本多忠勝・吉川元春・山県昌景・島津義弘〜」の話でした。

立花道雪(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

西国の武闘派代表:大友家の柱

今回は、西国の武闘派代表 立花道雪です。

1513年に戸次鑑連として生まれ、大友家に終生支えた道雪。

本来の名前である「戸次鑑連」と名乗っていた時期も長いですが、「立花道雪」で統一します。

名前生年(一部諸説あり)
立花道雪1513年
大友宗麟1530年
毛利元就1497年
武田信玄1521年
上杉謙信1530年
織田信長1534年
立花道雪と戦国武将・大名の生年

戦国時代において、最も長老格の毛利元就は1497年生まれです。

桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

1560年に「桶狭間の戦い」で若干26歳で鮮烈なデビューを飾った織田信長。

この年に、毛利元就は63歳で、当時の平均寿命を優に上回った「大長老」です。

左上から時計回りに、戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

1513年生まれの立花道雪もまた、かなりの「長老格」です。

大友家の武力の柱石となり続け、軍事のみならず大友家の政治・外交面にも影響を与えました。

若い頃に雷に打たれて、半身不随となった道雪。

ぐぐっ!
雷に打たれた・・・

雷に打たれて、生きているだけでもすごいことですが、何はともあれ、

半身不随となったが、
我が軍事能力・采配は変わらぬ・・・

変わらぬどころか、
「雷の化身」となって、大友を支えよう・・・

道雪は、駕籠に乗って采配をとり、軍隊の指揮をとりました。

「雷の化身」と敵から恐れられた道雪。

戦国の武と雷の神という意味で「武雷神」と呼びたい。

カゴに乗って采配を振るう立花道雪(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

この言葉は僕の造語ですが、そのように道雪を呼んだ方は他にもいるかもしれません。

超名門:大友家と大内家

1540年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

道雪は毛利氏・筑前諸勢力と死闘を続け、筑前名族立花家を継いで立花山城周辺を領しました。

道雪成人の頃、1540年頃の大友家は豊後・筑後を領する名家として、北側の大内氏と国境を接していました。

当時、中国地方と九州合わせ、日本有数の巨大勢力であり、「西の京」と言われた周防を拠点にした大内氏。

大友宗麟(Wikipedia)

その大大名・大内氏の最大の実力者・陶隆房は、主君である大内義隆を除こうと画策します。

戦国武将 陶晴賢(隆房)(Wikipedia)

殿(義隆)を除いて、
代わりに私が主君になりたいが・・・

それは、大内家の他の
連中が認めぬだろう・・・

そうだ!
名門の大友家から、主君を借りよう!

大友宗麟殿、
我が大内家に身内の方を入れていただけぬか・・・

我が、
弟の晴英を送ろう!

これで、大友のバックがあるから、
殿(大内義隆)を除けるな・・・

大友と大内が合体すれば、
最強よ!

お互い下心満々の二人。

大内+大友の巨大連合

大友家は一族を大内家に入れて、「大内家と大友家による巨大連合」を目論みます。

ところが、早まった陶隆房の謀反により、大内義隆は自害に追い込まれます。

その後を陶晴賢が大内家の実権を握るも、形式的に大友宗麟の弟に大内家を相続してもらいます。

大友宗麟の弟・晴英は、大内晴英と名乗り、

新たな殿の晴英様から、
偏諱を受け、「晴賢」に改名するぞ!

陶隆房ならぬ晴賢が暴れ回って、
大内家は弱体化してしまったが・・・

名家である大友と大内が組めば、
九州統一も夢ではないわ!

ところが、毛利元就と「厳島の戦い」で戦った陶晴賢は、追い詰められて自害します。

こんな
はずでは・・・

さらに毛利元就によって大内氏は滅ぼされ、大友宗麟の弟・大内義長(晴英)は自害します。

おのれ、
毛利め!

我が弟を自害に追い込むとは!
絶対に許さん!

勢いづく元就は、さらに尼子氏も滅します。

毛利家との死闘

毛利元就(Wikipedia)

勢いに乗った毛利元就は、九州に侵攻します。

瀬戸内海を抑えて、
海の流通経路を毛利のものに!

いわば「大内家乗っ取り」を画策し、失敗した宗麟。

大内の件は、
失敗したが・・・

元就は
絶対に許さん!

大友家は豊前・筑前大内領へ侵攻します。

そして、毛利氏と鋭く対立した際、前線で大友家の戦闘司令官・要となったのが道雪です。

この道雪がいる限り、
毛利に九州の土地は渡さん!

南蛮船がきて、貿易による利潤が大きく、鉄砲・大砲などの最新兵器の中心地であった博多。

博多を押さえて、海外と交易して
儲けよう!

キリシタンを保護する代わりに、
南蛮から鉄砲や大砲を買うぞ!

その博多周辺の筑前を求め、毛利・大友は門司城〜立花山城周辺で何度の何度も戦い、互いに大きく傷つきます。

大友・毛利の双方とも港を利用して、勢力圏を大きく伸ばそうと考えたのでしょう。

1563年に宗麟と共に剃髪し、立花「道雪」を名乗ります。

「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。死するまで主君を変えずに忠節を尽くす。」が名前の由来。

我が人生は、
大友家と共にあり!

道雪の大友家への思い、そして忠義心が現れています。

もともと九州守護・名家であった大友家の隆盛を支えた立花道雪は、大友家の武雷神として軍事を支え続けます。

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