前回は「柴田勝家 2〜武闘派の帝王〜」の話でした。

今回は西の武闘派代表 立花道雪です。
1513年に戸次鑑連として生まれ、大友家に終生支えた道雪。
大友家の武力の柱石となり続け、軍事のみならず大友家の政治・外交面にも影響を与えました。
若い頃に雷に打たれて半身不随となった道雪は、駕籠に乗って采配をとり、軍隊の指揮をとりました。
「雷の化身」と敵から恐れられた道雪。
戦国の武と雷の神という意味で「武雷神」と呼びたい。

この言葉は僕の造語ですが、そのように道雪を呼んだ方は他にもいるかもしれません。
道雪は毛利氏や筑前諸勢力と死闘を続け、筑前名族立花家を継いで立花山城周辺を領しました。
道雪成人の頃、1540年頃の大友家は豊後・筑後を領する名家として、北側の大内氏と国境を接していました。

当時、中国地方と九州合わせ、日本有数の巨大勢力であり、「西の京」と言われた周防を拠点にした大内氏。
その大大名大内氏が陶晴賢の謀反により弱体化します。
大友家は一族を大内家に入れて、「大内家と大友家による巨大連合」を目論みます。


大友と大内が合体すれば、
最強よ!
しかし、毛利元就によって大内氏は滅ぼされ、尼子氏も滅した毛利は九州に侵攻します。


いわば「大内家乗っ取り」を画策し、失敗した宗麟は豊前・筑前大内領へ侵攻します。
そして、毛利氏と鋭く対立した際、前線で大友家の戦闘司令官・要となったのが道雪です。
南蛮船がきて、貿易による利潤が大きく、鉄砲・大砲などの最新兵器の中心地であった博多。



博多を押さえて、海外と交易して
儲けよう!



キリシタンを保護する代わりに、
南蛮から鉄砲や大砲を買うぞ!
その博多周辺の筑前を求め、毛利・大友は門司城〜立花山城周辺で何度の何度も戦い、互いに大きく傷つきます。
大友・毛利の双方とも港を利用して、勢力圏を大きく伸ばそうと考えたのでしょう。
1563年に宗麟と共に剃髪し、立花「道雪」を名乗ります。
「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。死するまで主君を変えずに忠節を尽くす。」が名前の由来。



我が人生は、
大友家と共にあり!
道雪の大友家への思い、そして忠義心が現れています。
もともと九州守護・名家であった大友家の隆盛を支えた立花道雪は、大友家の武雷神として軍事を支え続けます。