前回は「羽柴秀吉 1〜諸国流浪で培った卓抜した知恵〜|戦国武将」の話でした。

いよいよ織田信長です。
信長に関しては、実に沢山の本・雑誌・メディアで取り上げられていています。
今回は、一つ雑誌を紹介します。

本書では、信長の天下布武の過程が多角的に描かれていて、読み応えあります。
ぜひ手にとって読んでください。
今回は本能寺の変発生時、信長が考えたことに迫りたいと思います。
最も大きい問題は「三職推任」問題でした。
日本統一後に「朝廷との関係をどうするか」が、信長にとって大きな問題でありました。
これに関して、様々な推論や公家の日記等の一次資料から、多くの歴史家の方が読み解いています。
後世、秀吉が織田一族を排除した過程を見ると、明確な資料は当時抹殺され、残っていないのが実情でしょう。

信長が、当時何を考え「どのような織田家・日本の将来」を考えていたかを推測しましょう。
当時の織田家の領土と武将の配置です。

1582年は、本能寺の変が発生しなかったとしても、信長にとって極めて大きな節目となりました。
1580年に西の強敵・本願寺を倒した後に、1582年に東の最大の脅威の武田家にとどめを刺したのです。

一時は戦国最強を誇った武田家は、凋落していました。
さらに、重臣である木曾義昌や最有力者の一人 穴山梅雪などの内応者がいたので、武田家は内部から崩壊していました。
滅亡に向けての速度があまりに早いので後世の視点からすると、「織田家にとって余裕の戦い」であったように感じます。
実態はそうではなかったようです。
万全を期した信長は、織田・徳川・北条の三大名の共同作戦で一気に攻め込みました。


信玄には、なんども苦杯を飲まされた・・・



三方ヶ原では死にかけた・・・
私を追い詰め続けた武田も終わりか・・・
「軍勢を出来るだけ集めて万全を期す」のが、桶狭間の戦い以降の、信長の戦略の基本的軸です。
この武田戦では、万全というよりも「確実を期す」感じです。


まだ武田家の勢力がある程度盛んで、信長は武田家の底力を重くみていました。
織田家が、異例とも言える大軍勢を動員し、総司令官で長男の信忠には度々書状を送り、軽挙妄動を戒めています。
補佐役には老練な滝川一益を付け、織田家総勢7万とも言われる大軍勢を、一気に武田領へ雪崩れ込ませました。
武田家に対して「確実を期した」信長でしたが、史実ほど早く片付くとは考えて無かったのでしょう。


そして、いよいよ天下統一が具体的に見えてきた信長。
信長にとって、最も大事なこと。



私が天下統一するのは、もはや確実!



私が名実共に「天下の主」となった後、
どのように外国と付き合ってゆくべきか?
それは、天下統一後の「国のヴィジョン」と「諸外国との関係」でした。