織田信長 1〜戦国の覇王が創り出そうとした未来〜|戦国武将

前回は「羽柴秀吉 1〜諸国流浪で培った卓抜した知恵〜|戦国武将」の話でした。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

いよいよ織田信長です。

信長に関しては、実に沢山の本・雑誌・メディアで取り上げられていています。

今回は、一つ雑誌を紹介します。

歴史人 2016年12月号(KKベストセラーズ)

本書では、信長の天下布武の過程が多角的に描かれていて、読み応えあります。

ぜひ手にとって読んでください。

今回は本能寺の変発生時、信長が考えたことに迫りたいと思います。

最も大きい問題は「三職推任」問題でした。

日本統一後に「朝廷との関係をどうするか」が、信長にとって大きな問題でありました。

これに関して、様々な推論や公家の日記等の一次資料から、多くの歴史家の方が読み解いています。

後世、秀吉が織田一族を排除した過程を見ると、明確な資料は当時抹殺され、残っていないのが実情でしょう。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長が、当時何を考え「どのような織田家・日本の将来」を考えていたかを推測しましょう。

当時の織田家の領土と武将の配置です。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

1582年は、本能寺の変が発生しなかったとしても、信長にとって極めて大きな節目となりました。

1580年に西の強敵・本願寺を倒した後に、1582年に東の最大の脅威の武田家にとどめを刺したのです。

武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

一時は戦国最強を誇った武田家は、凋落していました。

さらに、重臣である木曾義昌や最有力者の一人 穴山梅雪などの内応者がいたので、武田家は内部から崩壊していました。

滅亡に向けての速度があまりに早いので後世の視点からすると、「織田家にとって余裕の戦い」であったように感じます。

実態はそうではなかったようです。

万全を期した信長は、織田・徳川・北条の三大名の共同作戦で一気に攻め込みました。

徳川家康(Wikipedia)

信玄には、なんども苦杯を飲まされた・・・

三方ヶ原では死にかけた・・・
私を追い詰め続けた武田も終わりか・・・

「軍勢を出来るだけ集めて万全を期す」のが、桶狭間の戦い以降の、信長の戦略の基本的軸です。

この武田戦では、万全というよりも「確実を期す」感じです。

北条氏政(Wikipedia)

まだ武田家の勢力がある程度盛んで、信長は武田家の底力を重くみていました。

織田家が、異例とも言える大軍勢を動員し、総司令官で長男の信忠には度々書状を送り、軽挙妄動を戒めています。

補佐役には老練な滝川一益を付け、織田家総勢7万とも言われる大軍勢を、一気に武田領へ雪崩れ込ませました。

武田家に対して「確実を期した」信長でしたが、史実ほど早く片付くとは考えて無かったのでしょう。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、いよいよ天下統一が具体的に見えてきた信長。

信長にとって、最も大事なこと。

私が天下統一するのは、もはや確実!

私が名実共に「天下の主」となった後、
どのように外国と付き合ってゆくべきか?

それは、天下統一後の「国のヴィジョン」と「諸外国との関係」でした。

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