前回は「滝川一益 1〜卓抜した調略と軍事能力〜|戦国武将」の話でした。

今回は、柴田勝家です。
前回、織田四天王のメンバーに、様々な見解がある話をしました。
色々な意見はあると思いますが、織田家における実績・功績・家格を考えると、柴田勝家はどうあっても外せない存在です。
織田家随一の武闘派 柴田勝家。

織田家の武力の要は
私だ!
北陸方面軍が編成された時には、佐々成政・前田利家・佐久間盛政らの猛将達を統括した武闘派軍団の軍団長に就任します。
そして、上杉謙信に当たりました。


北陸方面軍の形成時期は、諸説あります。
朝倉家滅亡後、織田家が越前占領後に旧朝倉家臣に任せた後、一時一向宗に反撃され、越前を奪い解されます。
越前から織田家が撤退後、再奪取した後に柴田勝家率いる北陸軍団の萌芽がみられます。


武田家が弱体化した当時、戦国武闘派二強の一つ上杉家は、謙信と共に様々な勇猛な武将・強力な軍隊が健在でした。
これに対抗する武将は、織田家では柴田勝家しかいなかったのです。
少し時代を戻して、元亀騒乱時における織田家の近江における武将の配置です。


この頃は弱体化したとはいえ、まだまだ南近江の支配者だった六角家も健在。
琵琶湖を取り囲むように、織田家の中心人物が配置されています。
信長が最も近江制圧を重視していた頃です。


この頃「瓶割り柴田」の逸話がありますが、配置をみても織田家の武力の中心を担っていることがわかります。



近江の何処で何が発生しても、
柴田勝家が駆けつければ、問題なし!
合戦における、柴田勝家の戦闘力・突破力が、かなり重視されていたことと思います。
先の織田四天王・五人衆の羽柴・明智・柴田・滝川・丹羽は、全員が織田家の中核を担っていました。
誰か一人がかけていても、織田家の隆盛・勃興の速度は遅くなったでしょう。
全員超重要ですが、織田家の軍事力の中核を担い続けた柴田勝家は最重要人物と言っても良い。
調略能力・交渉能力・政治能力等に関しては、やはり羽柴・明智の方が目立ちます。
内政能力に関しては、柴田勝家は目立たない存在ながらも、ある程度の手腕を発揮します。
後に北陸へ軍団長として侵攻した際には、非凡な統治能力を発揮します。
加賀一向一揆に支配されていた「難治の国」である加賀・越前などをうまく統治しています。


戦国大名は「強さ」があってこそ、調略力や交渉力が発揮されます。
比較的「弱卒」といわれた尾張兵を率いて、合戦で最も重要な突破力を貫き続けた柴田勝家や佐々成政。
彼らの白兵戦における戦闘能力あってこそ、鉄砲主体とはいえ織田家が「強さ」を発揮し続けたと思います。
のちに秀吉に敗れたため、少し存在感が弱くなっているように感じます。





柴田殿の戦場での突破力は、
私にはできない芸当だ。
織田家随一の戦闘力を持つ男 柴田勝家をさらに考えてみます。