前回は「知覧特攻平和会館の特攻機〜神風特別攻撃隊と大西瀧治郎と源田実・統率の外道・特攻隊の指揮官・宇垣纏第五航空艦隊司令長官・陸海軍の特攻隊出撃者数〜」の話でした。
特攻機・零戦の誕生:海軍零式艦上戦闘機

特攻平和記念館に入ってすぐに「零戦展示室」があります。
本物の海軍零式艦上戦闘機(零戦)が展示されているのです。
1945年に出撃して鹿児島付近に墜落して海没していたのを、1980年6月に引き上げた零戦です。
35年もの長い時間海中に眠っていた零戦。
至る所が錆びて朽ちてきていますが、往時をしのぶ姿をとどめてくれています。

全面的に傷んでしまっていますが、プロペラはほぼ全形をとどめており、今にも飛びそうです。
この特攻機に登場したのは、どういう方で何歳くらいだったのでしょうか。
そう考える時、非常に重いものがあります。

Zero-Fighterたちの肖像:戦争の記憶

機体の後部はなくなってしまっていますが、座席などを見ることができます。
このような大変貴重な「戦争の記憶」が展示され、各方面から見ることができるのは大変良いことです。
鹿児島県の小中学校で指導があるのか、小中学生〜高校生くらいの子どもたち・青少年も多数いました。
こういう「戦争の記憶」や「戦争の事実」をしっかりと見て、知ることは非常に大事なことです。
特攻平和会館の外に展示されている零戦などと同様に、往時の大きさがよく分かります。
非常にコンパクトに作られた機能的な戦闘機「零戦」。
対米戦開始当初は、零戦の性能が高く、米軍を圧倒しました。
当時は、日中戦争で中国大陸で戦い続けていた歴戦の士が搭乗していました。
米軍からは「Zero-Fighter」と恐れられ、大変大きな戦力を持ちました。
真珠湾奇襲攻撃〜ミッドウェー海戦の頃の、日本軍の航空隊は非常に強かったのです。
その後、零戦が米軍に捕獲され、徹底的に研究されます。
その結果、太平洋戦争(大東亜戦争)中期から、米軍の戦闘機の方が性能が上になってしまいます。

そして、段々と米軍に日本軍が押されてゆくことになります。
この過程で最も問題だったのは、戦闘機・爆撃機などの機体の性能以上に、搭乗員のレベルでした。
当時、日本と比較して自動車の普及率が遥かに高く、飛行機も一般的だった米国。
米国では、民間航空会社などに「パイロット予備軍」が多数いました。
対して、民間航空機の発達が遥かに遅れていて、人口も少ない日本。
機体の性能の差以上に、搭乗員の力量・技量で負けてゆきます。
大西瀧治郎と宇垣纏の特攻へのケジメ

その結果、「特攻隊しかない」という発想まで追い詰められてのが実情でした。
「特攻隊の父」と言われ、特攻隊を強力に推進した大西瀧治郎 第一航空艦隊司令長官。

そして、大西と海兵同期(40期)であり、最前線で海軍特攻隊を指揮した宇垣纏・第五航空艦隊司令長官。

出撃してこい!



私も
後から必ずゆく!
と大西は言ったでしょう。
対して、傲岸不遜な正確で知られた宇垣長官。



明朝0430(マルヨンサンマル)に
出撃せよ!
その風貌から連日果断に将兵たちを指揮し続けたでしょう。
その雰囲気からして宇垣は、



私も後から
必ずゆく!
と言ったのかどうか、定かではありません。
「戦藻録」という貴重な資料を遺した宇垣。
極めて細部まで描かれたこの書籍は、第一級の資料です。
厳しさの中に優しさが垣間見える宇垣ですが、



私も後から
必ずゆく!
と特攻隊員には言わなかったように思います。
その代わりに、心の奥底で、



私も後から
必ずゆく!
と言っていたであろう宇垣。
いずれにしても、特攻隊の最重要責任者である二人。
この二人は敗戦(終戦)の日に、それぞれ違う形でケジメをつけることになります。
二人とも自ら生命を断ちますが、「だいぶ異なった方法で実行した」のでした。