前回は「知覧特攻平和会館〜陸軍特攻基地のあと・特攻隊を組織した大西瀧治郎と源田実・菅原道大・第六航空軍司令官と宇垣纏・第五航空艦隊司令長官〜」の話でした。
神風特別攻撃隊と大西瀧治郎と源田実:統率の外道
知覧特攻平和会館の外には、様々な飛行機が展示されています。
これらの戦闘機・艦爆機などに登場して、若者たちが出撃し、米軍の艦船に特攻してゆきました。
「特攻の創始者」といわれる大西瀧治郎。
ただ、これほど大事なことが、最前線の大西一人で決定できるはずはなく、特攻隊の創設は陸海軍の総意でした。
ミッドウェー海戦で大敗北をした後、米海軍に押され続けた連合艦隊。
1944年頃には、日本の敗北がほぼ決定している状況でしたが、日本の陸海軍は挽回を真剣に考えます。
そして、「挽回するには特攻しかない」という結論に至ったようです。
もはや、本気で
神風特別攻撃隊を出撃させるしかない・・・
しかし、若者たちに
「死んでこい!」というのは、もはや命令ではない・・・
部下に「死んでこい!」というのは、
命令の限界を超えている・・・
これは
「統率の外道」だ・・・
自ら特攻隊を強力に推進したものの、「統率の外道」であることは、重々認識していた大西。
その通りと
考えます。
戦後、参議院議員となり自衛隊に強力な影響力を持ち続けた源田実。
戦後、「特攻隊との関係」に関してはシラを切り続けたため、源田と特攻隊の関係は不明な点が多いです。
大西同様「航空隊のエキスパート」であり、海軍航空隊の中心に居座り続けた源田。
源田が「航空隊による特別攻撃隊」の作戦に関して、「関与していない」はずはありません。
源田自身が起案した作戦記録も残っています。
源田実は神風特別攻撃隊に関しては、「主体的に関与していた」と考えるのが妥当でしょう。
日本が米国に追い詰められ、もはや敗けることが確定していたとも言える1944年。
乾坤一擲の反撃を求めて、神風特別攻撃隊が編成されました。
鹿屋基地・知覧基地からは、陸海軍の特攻機が連日出撃しました。
特攻隊の指揮官:宇垣纏・第五航空艦隊司令長官
陸軍の特攻隊を指揮した菅原道大 第六航空軍司令官。
その優しそうな風貌からは、とても「特攻隊を指揮した将軍」という印象を受けません。
特攻隊に関しては、海軍が主役であったため、陸軍は海軍の指揮下に入りました。
おそらくは九州各地からの特攻隊に関しては、宇垣纏 第五航空艦隊司令長官が指揮したのでしょう。
菅原道大 第六航空軍司令官は、特攻隊の出撃を「追認する」立場であったと考えられます。
知覧特攻平和会館の特攻機:陸海軍の特攻隊出撃者数
実際に特攻に使用された飛行機の数々。
特攻に関しては、賛否両論あります。
賛否に関しては、人によって様々な意見があり、これは結論づけることは不可能な問題と思います。
ただ、自らの家族たちを守るために、上官の命令に従って10代から20代の数多くの若い将兵が、出撃してゆきました。
陸海軍の特別攻撃隊の人数は下記の表です。
陸海軍 | 特別攻撃隊出撃者数 | ||
陸軍 | 1,689人 | ||
海軍 | 4,156人 | ||
合計 | 5,845人 |
陸海軍共に航空特別攻撃隊・特殊潜航艇など、いくつかの部隊がありました。
この表からもわかる通り、海軍の出撃者数が全体の70%ほどを占めます。
つまり、神風特別攻撃隊は「海軍主体」であったのが実情でした。
陸海軍 | 航空特攻による戦死者数 | ||
陸軍 | 1,417人 | ||
海軍 | 2,531人 | ||
合計 | 3,948人 |
18歳〜22歳の若い軍人が、爆弾を搭載した飛行機に乗って敵艦に突撃した事実。
この事実は、日本人としてきちんと記憶に留めておきたいです。
次回は上記リンクです。