特攻隊員が最後の日々を過ごした三角兵舎〜宇垣纏と戦艦大和と特攻隊・宇垣第五航空艦隊司令長官特攻・最後の特別攻撃隊〜|神風特別攻撃隊の記憶4・太平洋戦争

前回は「神風特別攻撃隊の記憶 3〜知覧特攻平和会館・零戦・大西瀧治郎・宇垣纏〜」の話でした。

目次

特攻隊員が最後の日々を過ごした三角兵舎

知覧特攻平和会館(新歴史紀行)

知覧特攻平和会館の少し奥に、少し変わった建物があります。

これは「三角兵舎」と呼ばれる建物です。

知覧特攻平和会館(新歴史紀行)

特攻隊員の宿舎であった「三角兵舎」は、上空から目立たない設計となっていました。

そこで、建物が半地下に埋まっており、屋根に杉の幼木が被せられていたのです。

この三角兵舎に集まった特攻隊員たちは、2~3日後には出撃となります。

多くは18歳~22歳という、現代の大学生の年齢です。

中に入ることができるので、入ってみましょう。

知覧特攻平和会館(新歴史紀行)

非常に質素なつくりですが、合理的な構造です。

最小限の要素で、できるだけしっかり作ろうとする強い意志がしっかりと感じられます。

末期には米軍の激しい空襲が行われ、兵器工場などと同様に特攻隊の出撃基地も狙われたでしょう。

この三角兵舎で「最後の2~3日」を過ごして、様々な「人生の整理」をした隊員たち。

知覧特攻平和会館(新歴史紀行)

柱と梁のシンプルな構造に、柱の間に簡素な棚もあります。

隊員たちは「最後のケジメ」として遺書を書く方もいたでしょう。

宇垣纏と戦艦大和と特攻隊

宇垣纏 第五航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

対米戦開戦時には連合艦隊参謀長であった宇垣纏 第五航空艦隊司令長官。

「大鑑巨砲主義」の急先鋒であった宇垣。

軍令部第一部長時代に戦艦大和・武蔵の建造を強く推進しました。

戦艦大和(Wikipedia)

日露戦争における日本海海戦がモデルとなり、日本人らしい「アウトレンジ戦法」の究極の戦艦でした。

戦艦武蔵(Wikipedia)

日本海海戦のように艦隊決戦が行われたら、この戦艦大和・武蔵の巨砲が唸りを上げたでしょう。

そして、大艦巨砲主義の人物たちの狙い通り、戦艦大和・武蔵は大活躍したでしょう。

しかし、時代は「戦艦から空母へ」移行する過渡期でした。

この過渡期において、戦艦大和・武蔵は大きな活躍をする場がありませんでした。

そして、その巨砲が咆哮することがないまま、最後は撃沈されてしまいます。

日本が敗戦を迎える半年前の1945年2月に、第五航空艦隊司令長官に就任した宇垣長官。

よし!
行ってこい!

その超強気な性格から、特攻隊員に次々に出撃命令を下したのでしょう。

実際には、宇垣長官も内心は

行ってこい!は、
死んでこい!と同じこと・・・

死んでこい!
というのは・・・

命令の限界を
遥かに超えている・・・

と感じていたのでしょう。

ただし、特攻隊の出撃は宇垣個人の考えではなく、日本陸海軍の総意でした。

やむを、
やむを得ぬが・・・

宇垣第五航空艦隊司令長官特攻:最後の特別攻撃隊

宇垣司令長官搭乗の特攻機発艦(戦藻録 宇垣纏 原書房)

海軍内で最も強気な人物の一人であった宇垣長官。

前途ある若者たちへ特攻を命じることに対しては内心、非常に忸怩たる思いがあったのでしょう。

そして、敗戦が決定した日。

宇垣長官は自ら特攻機に搭乗し、部下を引き連れて特攻しました。

前代未聞の「長官特攻」となった「宇垣特攻」は、賛否両論があります。

また100年どころか、80年経過していない「神風特別攻撃隊」の事実。

歴史的には、「少し前の出来事」です。

日本の教育は太平洋戦争に関しては、あまり触れたがらない傾向がずっと続きます。

むしろ「触れないようにしている」感が強い日本の歴史教育。

これは非常に良くないことだと思います。

誰でも血塗られた歴史は、目を背けたくなる気持ちになります。

この現代においても、血塗られた事件は年中発生しています。

太平洋戦争末期の1945年5月にドイツが降伏した後、枢軸軍は日本一国となります。

3ヶ月ほどの短い期間ですが、文字通り「世界中を敵に回した」事実。

広島への原爆投下(Wikipeidia)

今の世の中では考えられないことでした。

そういう歴史を日本は持っていて、他の国はそのことをよく知っています。

歴史に詳しくない方でも、知覧特攻平和会館へは一度は足を運んでいただきたいと思います。

新歴史紀行

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