前回は「明智光秀 1~光秀の本性」の話でした。

明智光秀は、丹波の領民からは大変慕われていました。
「自らの領土からの税金と徴兵」が力の根源です。
「慕われるように政治を行う」のもまた当然のことでした。
後世、江戸時代に領民に重税をかけるなどで、一揆を起こされる領主がでました。
江戸時代のような平和な時代ならば、自らの領民を「徴税する対象」としかみない領主がいたでしょう。
血で血をあらう戦国期は、徴税するお金も大事ですが、「軍事力の根本」となる領民からの支持は最重要課題でした。

武田信玄は、信玄堤などの内政にかなりの力を入れる一方で、非常に重い税をかけていました。
うまく領民を束ねて、領民の支持は高かったのです。
あるいは比較的税金が安く、領民を慈しむように政治をしていた後北条氏は、一貫して領民の支持は高かったのです。

明智光秀が与えられた坂本城が京都にほど近く、大変良い立地であり、恵まれた土地でありました。
坂本城は本能寺の変後、山崎の合戦を経て落城してしまったので、残っておりません。
推定されるCG等でも大変美しく、優美な城であったことが推察されます。

京都から目と鼻の先である立地に加え、坂本城がこのような美しい水城であったことは、重要です。
同時代の城にはない非常に卓越した城でした。
織田信長の苛烈な性格を考えると、明智光秀の「異常なまでの厚遇」が分かります。

秀吉は今浜城を拝領した後、「長浜城」と名前を変えて懸命に街づくりをしました。
しかし、長浜城自体は特に特徴がある城ではありませんでした。
光秀は建築的センス、秀吉は土木的センスを持っていたとも言えます。


「なんでも一番を目指す」のだ!
素晴らしく立派で時代の最先端をゆく城を、あんな良い立地に明智光秀に築城させた信長。
なんとも不思議な気持ちになります。
信長は、秀吉よりも光秀を重宝していたように感じます。
光秀が仕官したのは、光秀が40歳の時です。
今の世なら、50歳過ぎのイメージです。


特に名声のない50歳過ぎの途中入社組の人が、急出世して専務取締役になったような話です。
重要なのは、紹介者が時の将軍・足利義昭であり、「(前)総理大臣の紹介」とも言えます。
いかに光秀に能力があり、非常に信長に買われていたのかが分かります。