明智光秀 2〜光秀の政治力と坂本城築城〜|戦国武将

前回は「明智光秀 1~光秀の本性」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

明智光秀は、丹波の領民からは大変慕われていました。

「自らの領土からの税金と徴兵」が力の根源です。

「慕われるように政治を行う」のもまた当然のことでした。

後世、江戸時代に領民に重税をかけるなどで、一揆を起こされる領主がでました。

江戸時代のような平和な時代ならば、自らの領民を「徴税する対象」としかみない領主がいたでしょう。

血で血をあらう戦国期は、徴税するお金も大事ですが、「軍事力の根本」となる領民からの支持は最重要課題でした。

武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田信玄は、信玄堤などの内政にかなりの力を入れる一方で、非常に重い税をかけていました。

うまく領民を束ねて、領民の支持は高かったのです。

あるいは比較的税金が安く、領民を慈しむように政治をしていた後北条氏は、一貫して領民の支持は高かったのです。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

明智光秀が与えられた坂本城が京都にほど近く、大変良い立地であり、恵まれた土地でありました。

坂本城は本能寺の変後、山崎の合戦を経て落城してしまったので、残っておりません。

推定されるCG等でも大変美しく、優美な城であったことが推察されます。

坂本城イメージ図(歴史人2020年2月号 KKベストセラーズ)

京都から目と鼻の先である立地に加え、坂本城がこのような美しい水城であったことは、重要です。

同時代の城にはない非常に卓越した城でした。

織田信長の苛烈な性格を考えると、明智光秀の「異常なまでの厚遇」が分かります。

京と坂本の位置関係(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

秀吉は今浜城を拝領した後、「長浜城」と名前を変えて懸命に街づくりをしました。

しかし、長浜城自体は特に特徴がある城ではありませんでした。

光秀は建築的センス、秀吉は土木的センスを持っていたとも言えます。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「なんでも一番を目指す」のだ!

素晴らしく立派で時代の最先端をゆく城を、あんな良い立地に明智光秀に築城させた信長。

なんとも不思議な気持ちになります。

信長は、秀吉よりも光秀を重宝していたように感じます。

光秀が仕官したのは、光秀が40歳の時です。

今の世なら、50歳過ぎのイメージです。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

特に名声のない50歳過ぎの途中入社組の人が、急出世して専務取締役になったような話です。

重要なのは、紹介者が時の将軍・足利義昭であり、「(前)総理大臣の紹介」とも言えます。

いかに光秀に能力があり、非常に信長に買われていたのかが分かります。

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