前回は「明智光秀 2〜光秀の政治力と坂本城築城〜」の話でした。

今回は、光秀と鉄砲の関係を考えます。
一般的には、「織田家と言えば鉄砲」「鉄砲といえば明智光秀」という認識があります。
司馬遼太郎氏の「国盗り物語」では、光秀が織田家に将軍家の使いとして登場します。
その後、足利家と織田家に両属する形で信長に仕える際、信長が「光秀の鉄砲の射撃能力」を高く評価したように描かれています。
同書では、本能寺の変後の秀吉との山崎の合戦の際、雨が降ってしまいます。
そして「明智軍の質・両共に優れた鉄砲軍の力が大きく削がれた」とし、敗北の一つの要因のように描かれています。

織田家においては、宿老である滝川一益や信長に長く仕えている佐々成政たちが、織田家の鉄砲隊を支えていました。
中でも、明智軍における鉄砲隊の比率は他家に比べて格段に高かったようです。

長篠の合戦当時、佐久間・柴田・滝川・丹羽等は光秀や秀吉よりも高い地位にいました。
指揮する軍団も大勢いたので「織田家で鉄砲では明智が一番」ではないのです。
やはり、「他の宿老に準ずる位置」にいるように思います。
以前から不思議に思っていたのは、長篠の合戦に光秀が参加していないことです。

まず、織田信長自らが、出馬しています。

上図では、なぜか滝川一益が描かれていませんが、参加している織田家の武将は、錚々たる顔ぶれです。
柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉・佐々成政・前田利家 他です。
当時の「織田家のオールスター」と言っても過言ではないでしょう。
参加していない大身の武将は、明智光秀・荒木村重などわずかです。

しかし、重視されていた光秀が、長篠の合戦に参陣していないのです。