明智光秀と鉄砲〜鉄砲伝来の地・種子島門倉岬・織田家における光秀と鉄砲・長篠の合戦と明智光秀〜|明智光秀3・人物像・軍事能力

前回は「明智光秀の卓抜した政治能力〜丹波攻略戦・壮麗な水城・坂本城・琵琶湖に佇む華麗な城・卓越した建築デザインセンス・信長に超優遇された光秀〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

明智光秀と鉄砲:鉄砲伝来の地・種子島門倉岬

鉄砲:種子島鉄砲館(新歴史紀行)

今回は、光秀と鉄砲の関係を考えます。

1543年に、種子島に漂着したポルトガル船に積載されていた鉄砲が、日本伝来のキッカケとされています。

種子島門倉岬:鉄砲伝来の地(新歴史紀行)

この「漂着」に関しては、諸説ありますが、ここでは「1543年に日本に鉄砲が出現した」事実から考えます。

一般的には、「織田家と言えば鉄砲」「鉄砲といえば明智光秀」という認識があります。

作家 司馬 遼太郎(司馬遼太郎の戦国 朝日新聞出版)

司馬遼太郎氏の「国盗り物語」では、光秀が織田家に将軍家の使いとして登場します。

織田家・足利家に所属する以前の光秀の足跡は、不明点が多いです。

朝倉 義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

ほとんど「謎」とも言える光秀の前半生ですが、越前・朝倉義景の食客だった説が有力です。

1560年代、朝倉家に寄宿していた光秀は、

私は鉄砲の射撃が
得意なのだ!

伝来して20年そこそこの「最新兵器」である鉄砲を使いこなしました。

ならば、光秀よ!
ここで撃ってみよ!

義景の前で、鉄砲を打ってみせた光秀。

私が鉄砲を
射撃するのをご覧ください!

そして、「ほとんどすべての弾丸を射的内」に収めた光秀。

おおっ!
これはすごい!

光秀よ!
そなたは、優れた力量を持っておる!

我が朝倉家で
大きな禄を与えよう!

はは〜っ!
有り難き幸せ!

となったようです。

ところが、そもそも現代と異なり、情報やモノの伝達速度が、著しく遅かった当時。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

裕福であった織田家は、信長の先進性によって、早い時期から鉄砲をたくさん仕入れていました。

では、どこで、光秀は「鉄砲の射撃能力」を身に付けたのか?

これは、非常に大きな謎であり、光秀自身が「どこまで射撃に通暁していたのか」は、諸説あるでしょう。

いずれにしても、鉄砲という「最新兵器」に造詣が深かった光秀。

大した
能力だのう・・・

その後、足利家と織田家に両属する形で信長に仕える際、信長が「光秀の鉄砲の射撃能力」を高く評価しました。

織田家における光秀と鉄砲

鉄砲:種子島鉄砲館(新歴史紀行)

この点も諸説ありますが、信長は光秀の軍事・政治・知謀に加え、築城・鉄砲などの能力を認め、

ぜひ、我が織田家に
来い!

となったのでしょう。

「国盗り物語」では、本能寺の変後の秀吉との山崎の合戦の際、雨が降ってしまいます。

我が鉄砲陣が
使えぬ・・・

そして「明智軍の質・両共に優れた鉄砲軍の力が大きく削がれた」とし、敗北の一つの要因のように描かれています。

山崎合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

織田家においては、宿老である滝川一益や信長に長く仕えている佐々成政たちが、織田家の鉄砲隊を支えていました。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

中でも、明智軍における鉄砲隊の比率は他家に比べて格段に高かったようです。

我が明智軍が、
鉄砲隊装備率最強!

実際には、年齢が上で「白兵戦重視」の柴田勝家を除いて、織田家では皆鉄砲を多く保有していたでしょう。

鉄砲が
強力なことは認める・・・

だが、合戦の最後を決めるのは、
白兵戦だ!

おそらく、新しいモノ好きで「抜け目ない」羽柴秀吉の軍も、鉄砲を多く持っていたでしょう。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

鉄砲は超強力だ!
我が軍にも一挺でも多く!

と考えていたであろう秀吉。

金ヶ崎の戦いの殿軍で奮戦する秀吉(歴史人2020年7月号 KKベストセラーズ)

実際、金ヶ崎の殿戦においても、

みなさん、この秀吉が
殿を見事務めるので・・・

みなさんの軍の鉄砲は
出来るだけ置いていってください!

と諸将に依頼し、織田家の膨大な火力を羽柴軍が担いました。

そして、

ゆけ!ゆけ!
撃て!撃て〜い!

と追撃してくる浅井・朝倉軍を撃ちまくって、なんとか殿軍を果たしたのでした。

長篠の合戦と明智光秀

戦国大名 武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田信玄亡き後、暴れ回っていた戦国大名 武田勝頼。

我が武田家は
最強なのだ!

信玄の死後、版図を広げる勝頼に対して、

そろそろ、
武田に痛撃を与えば・・・

信長自身が出馬し、長篠で織田・徳川連合軍と武田軍が睨み合います。

そして、勃発したのが「長篠の合戦」です。

鉄砲隊を指揮する滝川一益(戦国合戦絵巻 ダイヤプレス)

長篠の合戦当時、佐久間・柴田・滝川・丹羽等は光秀や秀吉よりも高い地位にいました。

指揮する軍団も大勢いたので「織田家で鉄砲では明智が一番」ではないのです。

やはり、「他の宿老に準ずる位置」にいたように思います。

以前から不思議に思っていたのは、長篠の合戦に光秀が参加していないことです。

山崎合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

まず、織田信長自らが、出馬しています。

上図を見て分かるように、参加している織田家の武将は、錚々たる顔ぶれです。

柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉・佐々成政・前田利家 他です。

鉄砲:種子島鉄砲館(新歴史紀行)

当時の「織田家のオールスター」と言っても過言ではないでしょう。

参加していない大身の武将は、明智光秀・荒木村重などわずかです。

信長に、非常に重視されていたはずの光秀。

・・・・・

「鉄砲なら明智」ならば、光秀率いる明智軍が出陣すべきでしょう。

ところが、長篠の合戦に参陣していないのです。

私には、
さらに重要な役目があるのだ・・・

「鉄砲なら明智」は多少脚色があるとしても、光秀の高い軍事能力を考える時、出陣すべきであった光秀。

それは、信長から、

お前には、
京周辺を固めてもらう!

という命令を受けていたのでしょう。

それ以外に、「長篠の合戦に光秀不在」の理由が見当たらないでしょう。

新歴史紀行

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