前回は「文禄慶長の役の時代の宇和島城増築〜朝鮮出兵から支那事変へ・急傾斜の山肌と石段・7万石の藤堂高虎と刑部少輔大谷吉継5万石〜」の話でした。
緻密な石段が華麗な宇和島城:江戸期も研究続いた石垣の積み方

愛媛県にある宇和島城は、地上部の城門を入った後、天守閣までかなり上がります。
ちょっとした運動になるくらい、石段を着実に上がってゆく必要があります。

同じ愛媛県の松山城は、完全な山城であり、宇和島城よりも標高がはるかに高いです。
標高132mの松山城に比べて、標高74mの宇和島城は、60%程度の標高です。
その一方で、松山城やロープウェイがあり、多くの人がロープウェイを使用します。
松山城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
ロープウェイ等は一切ない、宇和島城は、徒歩で上がるしか方法がありません。

標高329mの岐阜城は、ロープウェイ必須ですが、途中は石垣は少なかったように思います。
岐阜城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

平地から石段を登り続ける宇和島城は、石垣が至る所にあり、山全体が要塞のようになっています。
まさに、「山全体が城郭」であるのが宇和島城の特徴です。

上の説明資料のように、石垣の積み方が異なっている部分があります。
江戸時代の修理と、幕末の修理で、確かに、明らかに石垣の積み方が変わっています。
このように、江戸時代の100年ほどの間にも、石垣の積み方が異なるのは大事な事実です。
これらは、石垣への考え方の違いもあると思われますが、石垣は様々な研究がなされていたと考えます。
そして、緻密な石垣が華麗で美しいのが、宇和島城の特徴です。
頑強さが美に昇格した石垣:美しい宇和島湾

ようやく、「もう少しで天守閣」という地点に到達しました。
かなり荒々しい石垣ですが、おそらく江戸初期〜中期の石垣であると思われます。
現代に至るまで、多数の地震もあったので、これらの石垣はとても頑丈に作られています。
現代は、石垣を作ることはなく、コンクリートで基礎を作って、石を貼ることになります。
この観点から考えると、「現代の建築技術で、この頑丈な石垣が作れるのか?」と疑問に思います。

ようやく天守閣が見えてきました。
ここまで長い道のりであったこともあり、天守閣が少し小さく見えます。
こう見ると、白い天守閣を支える堅固な石垣が、頑強さを超えて美しさに到達していると思います。

天守閣前から、宇和島湾が見えて、美しい光景です。
藤堂高虎が築城・改修開始した1596年は、戦国末期でした。
そして、宇和島藩は伊達班となり、宇和島城はその後、1649年の大地震で損傷しました。
そして、1650年から、大規模な修復工事がなされた歴史があります。
江戸時代と現代では、「高さの感覚」がだいぶ異なります。
当時の感覚では、非常に高い位置に感じられた宇和島城の天守閣。

次回は、いよいよ宇和島城の天守閣内部に入ってゆきます。


