前回は「山全体を「城塞化」した宇和島城〜戦国から江戸期の「高さの感覚」・小高い山の湧水を守る廓・籠城戦で最重要の「水の確保」〜」の話でした。
文禄慶長の役の時代の宇和島城増築:朝鮮出兵から支那事変へ

平山城である宇和島城には、巨大な井戸があります。
この井戸の存在は、標高74mの平山城の宇和島城にとっては、極めて重要な存在でした。

藤堂高虎井戸があることは、
極めて良いことだ・・・
藤堂高虎が、宇和島城(当時は板島丸串城)の増築を開始した1596年は、戦乱の最中でした。





皆のもの!
この太閤秀吉に従え!
1590年に、関東の北条氏を降し、同時に東北の雄・伊達氏を降した秀吉。
この年に、日本は「事実上初」となる全国統一がなされました。
それまで、鎌倉幕府・室町幕府が存在しましたが、それらとは異なる「統一」でした。
これで、天下が平穏になると思いきや、



者ども!
朝鮮へ侵攻せよ!
わずか2年後の1592年に、朝鮮出兵し、文禄の役が始まりました。



朝鮮出兵では、
この高虎も出陣した・・・
朝鮮出兵には、藤堂高虎も出陣し、大いに活躍しました。
その後、一度は撤退し、豊臣政権と朝鮮の間で、様々な交渉が行われ、小康状態となりました。
ちょうど、この頃に宇和島城増築を開始した高虎。



また戦乱の世になるかも
しれぬ・・・



朝鮮出兵は、
愚策であろう・・・
頭脳明晰な高虎は、朝鮮出兵が愚策であり、失敗であることを悟っていたでしょう。
確かに、当時の日本全体の軍事力は、鉄砲の数や歴戦の大名らが多数いて、世界最強クラスでした。
その一方で、秀吉は、もう少し内治に専念すべきであり、国力を蓄えるべきでした。



とにかく、朝鮮を
制圧し、明国も治めるのだ!
朝鮮制圧は、ある程度可能としても、当時の日本にとって「明らかに目上」の存在だった明。



明国では、領土を分け合って、
皆に大きな領土をあげよう!
その明国を小さな国であった日本が、制圧できるはずもなかったのでした。
この頃の秀吉は「誇大妄想狂」になっていたフシも強く、大きくズレていました。
そして、この秀吉の「誇大妄想」は、340年ほどの時を経て、支那事変につながってゆきます。
急傾斜の山肌と石段:7万石の藤堂高虎と刑部少輔・大谷吉継5万石


小高い平山城である、宇和島城は、かなり傾斜が急です。
上の写真の通り、「平山城」であるものの、山城に近い印象があります。


先ほどの井戸から石段を上ったところから、下にある井戸を見た写真が上です。
この「井戸からちょっと上がった」だけでも、結構な高低差があることが分かります。
そして、上がってきた石段もまた、かなり傾斜が強いです。



秀吉はそろそろ
危ない・・・



そして、朝鮮出兵で
豊臣家の力は大きく落ちた・・
宇和島城増築開始の1596年の翌年1597年、朝鮮出兵=慶長の役が再開されます。
この「再度の朝鮮出兵」の兆候を感じ取っていた高虎。
高虎自身も、慶長の役に出陣することになります。
7万石という小心ながら、2,000名ほどを出陣させることが可能な一定の規模の大名となった高虎。


豊臣政権において刑部少輔であった大谷吉継は、敦賀の地で5万石の大名でした。
このことを考えると、7万石の藤堂高虎は、相応の大名であったと言えます。


天守閣に行くには、さらに石段を登ってゆく必要があります。
石段の向こうには、大きな石垣が見え、難攻不落の城であることが分かります。



この宇和島城で
籠城戦をやることになるかもな・・・
当時の高虎は、再び戦乱の世になることも考えていたでしょう。


京・山城中心だった日本の国家像において、当時は朝鮮出兵のため、西に大きく目が向いていました。
この状況の中、高虎の領土であった伊予・宇和島は、朝鮮にも比較的近い位置でした。
さらに、当時の最重要航路であった、瀬戸内海の入り口に位置した宇和島。



水城でありながら、
平山城である宇和島城・・・



籠城戦に向け、
工夫するのだ・・・

