前回は「城山から〜西南戦争と西郷〜」の話でした。
かつては「伊予国」と呼ばれた愛媛県。
かつて、愛媛県の松山市を訪れました。
松山市は山と海に囲まれたコンパクトな街で、心地よい風光明媚な街です。
小高い山にある松山城は「現存12天守(天主)」の一つで、とても貴重な城です。

築いたのは、羽柴秀吉の家臣だった加藤嘉明。

賤ヶ岳の戦いで、加藤清正・福島正則らとともに「七本槍の一人」となります。
比較的地味な武将で、あまり表舞台には出てきません。
1563年に生まれた加藤嘉明の家は、元々は松平家に支えた家柄でした。

家康が若き頃、領内で一向一揆が勃発して、「家康の家臣の多くが一向一揆側に付く」という大変な事態となります。
なんとか、一向一揆を鎮圧した家康。
この時に加藤嘉明の父親は三河を離れて、近江へ向かいます。
この三河一向一揆では、家康は非常に寛大な処分を出し、「一揆側についた家臣を許す」までしています。

一向一揆についた
家臣たちよ。



許してやるから、
戻ってこい。


のちに家康の参謀役となる本多正信もまた、一度一揆側についたものの「許されて帰参」しました。
「家康の度量」を示す一例と言われます。
実情としては、「一揆側についた家臣を許さないと、家臣が少なくなって危うい」状況だったのでしょう。


信長だったら、全員許さなかったでしょう。
とにかく、尾張から岐阜、そして近江に向かった加藤家。
加藤嘉明は、出世頭としてメキメキ頭角を現していた羽柴秀吉に仕えます。





良い若者を
どんどん家臣にしたい。
成り上がり者で、家臣が少ない羽柴秀吉。
浅井・朝倉を打ち破り、長浜城主になった秀吉は、大いに家臣を探します。
ここで、加藤嘉明は秀吉に仕え始めました。



秀吉様は、織田家の中でも
出世頭だ。
秀吉の元で、出世に大いに意欲を燃やす加藤嘉明でした。