松山城のたそがれ 1〜加藤嘉明の城〜

前回は「城山から〜西南戦争と西郷〜」の話でした。

かつては「伊予国」と呼ばれた愛媛県。

かつて、愛媛県の松山市を訪れました。

松山市は山と海に囲まれたコンパクトな街で、心地よい風光明媚な街です。

小高い山にある松山城は「現存12天守(天主)」の一つで、とても貴重な城です。

松山城(新歴史紀行)

築いたのは、羽柴秀吉の家臣だった加藤嘉明。

加藤嘉明(Wikipedia)

賤ヶ岳の戦いで、加藤清正・福島正則らとともに「七本槍の一人」となります。

比較的地味な武将で、あまり表舞台には出てきません。

1563年に生まれた加藤嘉明の家は、元々は松平家に支えた家柄でした。

松平元康(徳川 家康)(Wikipedia)

家康が若き頃、領内で一向一揆が勃発して、「家康の家臣の多くが一向一揆側に付く」という大変な事態となります。

なんとか、一向一揆を鎮圧した家康。

この時に加藤嘉明の父親は三河を離れて、近江へ向かいます。

この三河一向一揆では、家康は非常に寛大な処分を出し、「一揆側についた家臣を許す」までしています。

一向一揆についた
家臣たちよ。

許してやるから、
戻ってこい。

本多 正信(Wikipedia)

のちに家康の参謀役となる本多正信もまた、一度一揆側についたものの「許されて帰参」しました。

「家康の度量」を示す一例と言われます。

実情としては、「一揆側についた家臣を許さないと、家臣が少なくなって危うい」状況だったのでしょう。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長だったら、全員許さなかったでしょう。

とにかく、尾張から岐阜、そして近江に向かった加藤家。

加藤嘉明は、出世頭としてメキメキ頭角を現していた羽柴秀吉に仕えます。

羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

良い若者を
どんどん家臣にしたい。

成り上がり者で、家臣が少ない羽柴秀吉。

浅井・朝倉を打ち破り、長浜城主になった秀吉は、大いに家臣を探します。

ここで、加藤嘉明は秀吉に仕え始めました。

秀吉様は、織田家の中でも
出世頭だ。

秀吉の元で、出世に大いに意欲を燃やす加藤嘉明でした。

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