前回は「飛び抜けた政治力を行使した勝海舟〜「幕府の外」を軸にした勝・「一気に飛躍するハッタリ屋」勝の力の根源・多数いた幕臣の俊才たち・西洋科学を理解した榎本武揚〜」の話でした。

水戸徳川家から一橋家へ:昭致から将軍偏諱・慶喜の名前へ

1837年に、水戸藩に生まれた徳川慶喜。
家 | 石高(約) |
尾張徳川 | 62万石 |
紀伊徳川 | 56万石 |
水戸徳川 | 35万石 |
徳川幕府の幕藩体制において、「別格」の格式を持つ御三家・水戸に生まれました。

私は、徳川を支える
御三家・水戸の徳川慶喜だ!
1837年は、後世の視点から見れば「幕末に向かってゆく時代」です。
水戸黄門を輩出し、独特の「水戸学」があり、後楽園などの文化を重視した水戸藩。
水戸藩は、「御三家末席」ながら、華麗な印象がある藩でした。





私が徳川幕府第十二代将軍
徳川家慶である!
慶喜が生誕した1837年は、第十二代将軍 徳川家慶の時代であり、徳川幕府の体制は盤石でした。


慶喜の父親である徳川斉昭は、かなり個性的な人物で、幕末の風雲で強烈な影響をもたらします。
その徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は、最初は、



ワシの昭の字を与えて、
徳川(松平)昭致と名付けよう!



私は、水戸徳川家の
跡取り候補の一人、徳川昭致(あきむね)だ!
斉昭の一字を貰い、昭致(あきむね)という名前だった慶喜。



私には
子どもがたくさんおるのだ!
何かと物議を醸し出すことが多かった徳川斉昭は、文武両道の人物でした。



我が水戸に素晴らしい
庭園を作るのだ!
そして、水戸において、「三大庭園の一つ」となる偕楽園を生み出したのが斉昭でした。
子沢山であった徳川斉昭でしたが、「七男」であった慶喜。
この時代は、夭折や早期に亡くなる人が多かった時代ですが、



七男だから、水戸徳川の後継者の
一人である!
慶喜は、「水戸徳川の後継者の一人」に過ぎませんでした。
超名門の御三家に生まれた慶喜(昭致)は、御三家から格下の御三卿・一橋家に移りました。
田安徳川家(田安家):10万石
一橋徳川家(一橋家):10万石
清水徳川家(清水家):10万石
御三卿は「10万石の格式」でしたが、領土を多くは持たない「徳川親衛隊」の家でした。



昭致が、一橋家を
継いだか・・・



つまり、我が
一家だ!
この頃、一橋家出身者が多かった徳川将軍家でしたが、家慶も一橋家でした。
この意味では、「格下の一橋」は「格上の水戸徳川」より上でした。



よしっ!
ワシの名前を偏諱し、慶喜と名乗れ!



ははっ、
これからは一橋慶喜と名乗ります!
こうして、一橋慶喜が生まれました。
「大政奉還で新たな時代へ」を決断実行した徳川慶喜の実像


そして、時代は変わり、将軍は徳川家定に変わりました。



我らが将軍、
徳川家定様・・・
そして、若い頃からルックスが良く、頭脳明晰であった一橋慶喜は、



慶喜様の頭の切れ方は、
素晴らしい・・・



慶喜様は、
東照大権現(家康)様の再来では・・・
「家康の再来」とまで言われるようになり、



ひょっとしたら、慶喜様が
将来、将軍になるかもな・・・
「将来の将軍候補」となった一橋慶喜。



この私が
将軍候補か・・・
この頃、20歳頃だった慶喜は、「将軍になる可能性」を意識し始めたでしょう。
そして、家定が亡くなる頃、次期将軍を慶福(家茂)と熾烈に争った慶喜。



私は
慶喜は大嫌いなのだ!
第十二代・家慶に可愛がられた慶喜でしたが、第十三代・家定に嫌われた慶喜。


そこに大老 井伊直弼が登場し、



次期将軍は
慶福様で決定!
次期将軍は、慶喜ではなく慶福(家茂)に決定しました。





私が第十四代将軍
徳川家茂である!
将軍継嗣問題の頃の、井伊直弼に関する話を、上記リンクでご紹介しています。



慶福に
負けたか・・・
4歳年下の若造であった、慶福(家茂)に敗北し、大いにプライドが傷つけられた慶喜。
ところが、時代は慶喜を必要としており、家茂の次に将軍となった慶喜。



私が第十五代将軍
徳川慶喜である!
しかし、慶喜が将軍に就任した1867年は、「幕末」というよりも「江戸時代最後の年」でした。
翌1868年からは「明治」となる時代に将軍になった「家康の再来」慶喜。



この私が、
長州を倒す!



私が出陣して、
長州大討込だ!



ここで、慶喜様が
徳川をまとめて、薩長を潰すのだ!
もはや徳川の屋台骨がグラグラ揺らいでいましたが、組織は全て「ボス次第」です。



薩摩も、
我が徳川の敵か!



ならば、
薩摩もまとめて倒すまで!
そして、土佐藩・後藤象二郎や坂本龍馬発案の大政奉還を受け入れた慶喜は、



とりあえず、大政奉還するが、
どうせ朝廷には何もできまい・・・



結局、我ら徳川が「別の形」で
トップに君臨するのだ!
大政奉還は「見せかけ」であり、時代に合わせた「別の形」を目論んだ慶喜。
ここまでは、慶喜の采配は際立っており、その政治力は抜群でした。





大政奉還、
ごわすか・・・



慶喜めが、
そう出てきたか・・・



とにかく、慶喜を
潰さねば、我らが潰される・・・
1867年11月9日に、大政奉還を強行した慶喜。



これで、薩長がいかに騒ごうと、
我が徳川を攻撃する大義名分がない・・・


大政奉還の素案を考えたのは、坂本龍馬と言われ、それを形にしたのは後藤象二郎でした。



大政奉還すれば、
良いぜよ!



確かに・・・
これで、新たな時代を迎えるか・・・
何事も「素案」や「原型」が大事ですが、最後にトップが決断するのが最重要です。



もう徳川幕府の時代には
ピリオド!



新たな時代に合わせた
体制で良い!



私は、もはや「大樹様」と
呼ばれんでも良い!
何はともあれ、「大政奉還で新たな時代へ」を決断・実行した慶喜の政治力は抜群と言って良いでしょう。