前回は「勝海舟の凄みの背景「蘭学の学び」〜ヅーフハルマ二冊筆写の根性・「下っ端旗本」だった勝麟太郎・旗本と御家人のランク〜」の話でした。

「一気に飛躍するハッタリ屋」勝の力の根源

薩長を中心とした勢力が、徳川幕府を討幕(倒幕)した明治維新。
後世から見れば、「徳川の時代は賞味期限切れだった」ようにも感じられ、「自然の流れ」にも見えます。
一方で、当時、実際に「徳川の時代」を生きている人たちから見れば「驚天動地の事態」でした。

なあに・・・
維新のことはな・・・



おいらと西郷とで
全部やったのさ!
見方によっては「虚言癖のある人物」である勝海舟は、このように話しています。
つまり、幕府側の人間でありながら、「討幕の立役者の一人」であったことを明言した勝。


当時、最先端であった蘭学を猛勉強し、当時極めて高いレベルの知識と学力を持っていた勝。



自慢ではないが、
私は、なかなか頭は良い方だ・・・



そして、私はハッタリ屋の
面もあるが、努力家だ・・・
「一気に飛躍するハッタリ屋」であった勝の力の根源こそが、若い時の学びでした。
多数いた幕臣の俊才たち:西洋科学を理解した榎本武揚


確かに勝は、当時かなり優れた「政治家+官僚」でしたが、徳川幕府には同程度の人物は多数いました。



我が小栗家は
名門旗本であり、徳川ファーストだ!



我が榎本家は、
徒目付の家柄で、私は徳川を支える!



我が川路家は代官の家柄で、
徳川を支えてみせる!
名前 | 生年 |
川路 聖謨 | 1801年 |
勝 海舟(麟太郎) | 1823年 |
小栗 忠順 | 1827年 |
榎本 武揚(釜次郎) | 1836年 |
明らかに勝海舟よりも「家柄・身分が上」の幕臣の中にも、小栗・榎本らの優れた人物がいました。
おそらく、頭の良さや「物事を推進する力」は、



私は、家柄相応の
頭脳があり・・・



財政も外交も
推進する自信がある!
勝よりも小栗・川路・榎本の方が遥かに上だったでしょう。



ま、確かに
彼らの頭脳は大したもんだ・・・



川路さんは人物も立派であり、
かなりの頭脳と胆力もある・・・
勝海舟よりも20歳以上年上であり、明らかな「先輩格」であった川路。



私の目の黒い内には、
徳川に反するものは消してみせる!
川路もまた、「徳川ファースト」の人物でした。



そして、小栗と榎本は
俺よりも頭が良いのは事実だ・・・
そして、育ちの良さが筆頭格だった小栗は、頭脳のキレも筆頭格でした。



釜次郎(榎本)は、最先端の
舎蜜(せいみ)学も分かるからな・・・



西洋の科学技術のことも
分かる釜次郎には敵わんな・・・
舎蜜(せいみ)学とは、現在の化学です。
少し家柄が落ちる榎本釜次郎(武揚)は、若い頃から俊才で知られており、



とにかく、西洋の科学も
技術も吸収するのだ!
かなり頭脳を持っていた勝海舟でしたが、徳川幕府には勝以外にも「多数の英才」がいました。
飛び抜けた政治力を行使した勝海舟:「幕府の外」を軸にした勝


勝海舟が頭角を表し始めた頃は、日米修好通商条約などで幕府が揺れていました。
頭脳に自信があった勝でしたが、多数の優れた幕臣の中では、埋没しかねない存在でした。



頭脳では、俺よりも
川路さんの方が上かもしれん・・・



小栗や釜次郎(榎本)は、
当代切っての切れ者であり・・・



まっ、俺でも小栗と釜次郎
相手では敵わんな・・・
「屋台骨が傷んでいた」と言われる徳川幕府ですが、強力な幕臣が多数いました。


桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠などの多数の優れた志士がいた長州。
高杉晋作に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


西郷隆盛と大久保利通が目立ちすぎる存在だった薩摩には、村田新八や桐野利秋もいました。


坂本龍馬と中岡慎太郎が飛び抜けた存在の土佐藩。
実際には、脱藩者だった坂本と中岡の影響力は「かなり限られていた」のが実情でした。
そして、「正統派」の後藤象二郎や板垣退助が、ずば抜けていました。
ここに挙げた人物たちは、少なくとも維新直前までは奮闘し続けた人物です。


そして、勝海舟が、幕末維新を切り拓く存在となった最大の理由は「視野の広さ」でした。



俺にとって、徳川幕府が
最も大事だが・・・



幕府と諸藩の関係が
時代を切り抜ける鍵だ!
名前 | 生年 |
島津 斉彬 | 1809 |
島津 久光 | 1817 |
阿部 正弘 | 1819 |
伊達 宗城 | 1818 |
勝 海舟 | 1823 |
山内 豊信(容堂) | 1827 |
松平 慶永(春嶽) | 1828 |
そして、当時の諸藩の優れた大名たちの間で、程よい年頃だったのが勝海舟でした。
「幕府の外」を軸にした勝は、幕末維新の時代を雄飛してゆきます。