前回は「「大政奉還で新たな時代へ」を決断実行した徳川慶喜の実像〜水戸徳川家から一橋家へ・昭致から将軍偏諱慶喜の名前へ〜」の話でした。

「徳川の終わり」を暗示した桜田門外の変

「慶福」という名前の徳川家茂と将軍後継者争いをして「敗北した」一橋慶喜。
「最後の将軍」となる徳川慶喜は、元「徳川」で「一橋」家に入って、最後また「徳川」になりました。

慶福に
負けたか・・・
若い頃から、英邁を謳われ、「徳川家康の再来」とまで言われていた一橋慶喜。
名前 | 生年 |
徳川慶喜 | 1837 |
徳川家茂 | 1846 |
しかも、9歳も年齢が下であった慶福=家茂に敗北した慶喜は、



なぜ、私が
慶福に敗北せねばならんのか・・・
「プライドがズタズタ」だったでしょう。





次期将軍は
慶福様で決定!
ところが、強引に慶福を将軍後継者に任命した大老・井伊直弼は、



ぐふっ、
ま、まさか・・・
1860年に桜田門外の変で暗殺されてしまい、あっさり消えてしまいました。


現代の首相を超えた存在だった大老が「白昼暗殺された」事態は、「徳川の終わり」を暗示していました。
そして、この頃から、明らかに幕威が衰えるのが目に見えてきた慶喜は、



この私が将軍になれば、
このようなことには・・・



我が徳川幕府が
ここまで弱ることはなかった・・・
本来「自分がなるべきであった第十四代将軍」に対して、思うところがたくさんあったでしょう。
曖昧な権限だった特別職「将軍後見職」


そして、幕末に沸騰し続けた長州藩への対応が、徳川幕府の「喫緊の課題」となりました。



全く、長州藩の
連中めが!


現代の視点から見れば「超正統派」であった長州藩の志士たち。
ところが、当時の視点から考えれば、単なる「犯罪者集団」であったのが長州藩の実態でした。



御所を攻撃して、
天子様に直訴するのだ!
現代の皇居である御所を攻撃するという、「とてつもないこと」を敢行した長州」
幕末維新を爆発させた久坂玄瑞に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


諸外国との折衝だけでも、大変な事態であった幕末の徳川幕府。
さらに、国内情勢は京の治安が壊滅的状況となり、幕府は内憂外患の様相を呈しました。





私が将軍後見職となり、
将軍家茂を支えるのだ!
この中、新設の「将軍後見職」に就任し、将軍・家茂を補佐する体制を一翼を担った慶喜。
この「将軍後見職」という役職は、「慶喜のために作られた職」でした。
「将軍になったかもしれない」家茂より年上の慶喜は、大老や老中に就任する立場ではありませんでした。
そもそも、大老や老中は「譜代大名=徳川の重臣」が就任する立場であり、



私は徳川本体であり、
超越した立場なのだ!
慶喜が「将軍を補佐する役」に就くには、「新設の職が必要」でした。
ところが、この「将軍後見職」という行き当たりばったりの職は、権限が曖昧でした。



徳川を建て直したいが、
私に何が出来るのだ・・・
いわば「お飾り的役職」に過ぎなかった将軍後見職に対し、慶喜は大不満でした。
これは、当然であり、慶喜の「やる気」は空回りとなりました。
「徳川幕府の幕引役」を受けた徳川慶喜の実像


幕末の大混乱の中、徳川幕府から見て「諸悪の根源」であった長州への侵攻を断行した幕府。



長州を叩き潰し、
我が幕府を建てなおす!
長州に対しては、第一次・第二次と二回も攻め込んだ徳川幕府。
表高37万石程度であった長州藩は「大藩」でしたが、徳川幕府は旗本合わせて700万石ほどでした。
これらの石高は、江戸時代初期の数字です。
江戸時代初期から270年ほど経過した幕末は、長州も徳川幕府も石高が成長していたはずです。
「実高100万石」と呼ばれた長州藩。
「100万石」は幾分誇張があるとしても、「実高80万石」はあったと思われます。
対して、徳川幕府も新田開発など、適切な成長をしていたはずで、石高は増加していたはずです。
筆者は、徳川幕府は旗本と合わせて「少なくとも1000万石はあった」と考えます。
「実高」は議論があるとして、少なくとも表高では「37万石vs700万石」であった長州と徳川の戦い。
誰が見ても、「徳川幕府の楽勝」でした。
第二次長州征伐においては、一橋慶喜は大いに張り切り、



長州大討込だ!
長州を徹底的に潰す!
諸大名の「陣頭指揮」をする意気込みだった慶喜。



・・・・・
ここで、一大異変が勃発しました。
病弱だった将軍・家茂が病死してしまったのでした。



次期将軍は私しか
いないが・・・



この状況で、
受けたところで・・・



もはや、どうにも
ならん状況だ・・・
家茂が第十四代将軍に就任した1858年に、本来「将軍になるはずだった」慶喜。
それが、1866年の8年後に「お鉢が回ってきた」状況になりました。



8年前であれば、
いかようにも出来たのだが・・・
これが、平和な時代ならば、「8年の違い」は大きなことではなかったかもしれません。
ところが、幕末は「1年でも大違い」であり、「8年の違い」は埋め難いものでした。



慶喜様!
第十五代将軍に就任ください!



いや、
私はお受けできない・・・
そして、「第十五代将軍」への就任を断り続けた慶喜。
これは、「慶喜なりのジェスチャー」という見方もありますが、半分は本心だったでしょう。
ところが、周囲を見渡してみて「将軍に適切な人物は誰もいない」中、



第十五代将軍に
就任しよう・・・
第十五代将軍に就任した慶喜。
慶喜自身、将軍就任において、ある可能性を感じていたでしょう。



出来るだけのことは
やるが・・・
「最後の将軍」となる可能性を。