前回は「靖国神社で虚空を睨み続ける大村益次郎〜睨んだ先と上野の西郷隆盛像・神社軸線上の強い象徴性・彰義隊との死闘〜」の話でした。
歴史が比較的「浅い」靖国神社:日本における神社と寺社

日本人にとって、精神の故郷とも言える存在が靖国神社です。
日本には多数の神社や神宮がありますが、靖国神社の歴史は「浅い」のが事実です。
靖國神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社
がはじまりです。
江戸幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。
しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの人々の尊い命が失われる結果となりました。
そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建されたのです。
1869年(明治二年)に、明治天皇が設立した東京招魂社が靖国神社の前身です。


「東京招魂社」を
創立せよ!
靖国神社設立の頃の話を、上記リンクでご紹介しています。
そして、設立からちょうど10年後の1879年、現在の靖国神社という名称に変更になりました。


そして、日本には多数の寺社があります。
788年に創建された延暦寺は、2025年現在で1237年もの歴史を持っています。
延暦寺を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。
宗教名 | 宗教施設 | 祀る対象 |
神道 | 神社 | 神様 |
仏教 | 寺社 | 仏様 |
神道が国教である日本においては、神社が正統派です。
その一方で、古来から自社はかなり強力な力を持ってきました。
宗教名 | 宗教施設 | 祀る対象 |
神道 | 靖国神社 | 英霊 |
そして、祀る対象が「英霊である」点が、靖国神社が独特の存在であることです。
「遊就館」設立構想の始まりと西南戦争:明治政府の根幹揺るがす超大事件


そして、靖国神社の奥の方にひっそりと佇むのが遊就館という施設です。
中国の古典、『荀子』勧学篇「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」から「遊」「就」を撰んだものです。
国のために尊い命を捧げられた英霊のご遺徳に触れ、学んでいただきたいという願いが館名には籠められています。
遊就館は明治10年の西南戦争が終わるころ設立の構想が出され、同12年に陸軍卿・山縣有朋を中心に、「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設」として構想され、イタリアの雇教師カペレッティーの設計により、明治14年にイタリア古城式の建物が竣工し、翌15年2月25日に開館式が行われました。
遊就館では、令和7年1月、常設展示室の展示品入替えや調整を行って見やすくし、説明文をより分かりやすく書きかえて英文を併記するなど、英霊の「みこころ」を多くの方に伝え、次の世代に語り継いでまいります。
遊就館は、西南戦争直後に設立構想が生まれたとのことです。





政府に
尋問の議あり!
こうして、当時日本最強を超えて世界最強だった薩摩軍を率いて挙兵した西郷隆盛。



遂に西郷が
挙兵したか・・・



我が新政府は、
あの薩軍に勝てるのか?



西郷及び
薩軍は賊である!



また
西郷か・・・



西郷よ・・・
いい加減にしないか・・・
西郷軍 | 政府軍 | |
兵力(人) | 約30,000名 | 約90,000名 |
戦死者(人) | 約6,800名 | 約6,400名 |
最終的に、明治政府は圧倒的物量で西郷軍を潰すことに成功しました。
ところが、3倍もの兵力がありながら、戦死者は同程度だった政府軍。
戊辰戦争をはるかに超える、大戦争であったのが西南戦争でした。
西南戦争勃発の1877年の翌年、1878年には、



ぶ、
無礼者めが!
新政府の当時の事実上の首相であった大久保利通が暗殺されるに至りました。
この頃に、遊就館の設立構想が生まれました。
推進したのは陸軍の後継者であった山縣有朋ですが、岩倉の意思も強く含んでいると思われます。



徳川を倒すのに、
たくさんの血が流れた・・・



それで、東京招魂社を
設立したが・・・



さらに、西郷とこんな血みどろの戦いが起きて、
多数の将兵が死んでしまい・・・



木戸も病気で死に、
大久保まで殺されてしまった・・・
「西南戦争+大久保暗殺」は明治政府の根幹が揺らぐ大事件でした。
そして、東京招魂社が靖国神社という名称となった1879年頃、遊就館構想は本格化したのでしょう。