前回は「「街全体を城郭化」した稀代の城郭・小田原城〜「関東の王」の城・後世定着した「小田原評定」のイメージ・豊臣家の小田原征伐〜」の話でした。
「戦国時代の最後を飾った」小田原城:「北条帝国」増強した氏政

「稀代の居城」であり、「難攻不落の城」として、戦国時代を駆け抜けた小田原城。
「稀代の居城」は後に、豊臣秀吉の大坂城(大阪城)などに抜かれてしまいますが、時代が違います。
戦国期を通じて、「城と言えば小田原城」のイメージであり、「城の代名詞」的存在であった小田原城。
その小田原城には、上のような「小田原評定」の実物大フィギュアがあります。

さらに、このフィギュアの面白い点は、「自分も小田原評定に参加出来る」点です。
「書き割りの武将の絵などで、顔だけ一緒に映ることが出来る」タイプは、よく見かけます。
それに対して、「実物大フィギュアの数名の催しに参加出来る」のは稀です。
現代では、「非常に悪いイメージ」の小田原評定。


豊臣軍が15万を
超える、だと・・・



我が北条家は、
限界まで総動員して6万程・・・
三代目・氏康と比較して、凡将・愚将と言われることが多い四代目・氏政。
実は、氏政は類稀なる政治力で「北条帝国」を統治下のみならず、強化し続けました。
本能寺の変直後、一時は「織田家従属」だった北条氏政が果敢に関東を奪い返しました。
北条氏政率いる北条軍と、滝川一益率いる滝川軍との死闘を上記リンクでご紹介しています。



我が北条家は、
限界まで総動員して6万程・・・
さらに、「ほぼ全国を支配下に治めていた」豊臣軍は、後方からどんどん補給があります。
対して、「補給は限定されていた」のが北条軍でした。
2.5倍の軍勢に対して、「圧倒的不利」でしたが、



城攻めには3倍の兵力が
必要なのだ!



さらに、この小田原城は
天下一の難攻不落の城!



豊臣軍は、いずれ
疲弊して撤退しようぞ!
北条氏政は強気を通し、徹底抗戦を続けました。



だが、今後
どういう手がある?
その一方で、「今後他の手は?」に関しては「思考停止」にならざるを得なかった氏政。



・・・・・
その結果が、無意味な「小田原評定」となってしまいました。
ある意味で、「戦国時代の最後を飾る城」としては、小田原城しかなかったのかも知れません。
悪名高い「小田原評定」ですが、「氏政が無能」なのではありませんでした。
この「超異常事態」では、誰であっても「思考停止」となったでしょう。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの超一級の武将以外は。
民衆重視と天下一の特大平城:「初の天守」生み出した松永久秀


全て再建の小田原城では、「どのように再建したか」の展示が多数見受けられます。
上の写真は、「塀の復元」に関する工程が詳細に紹介されています。


銅門(あかがねもん)の土塀の復元模型で、昔ながらの建築づくりが紹介されています。
ここでは、城壁が少しずつ重ねて構築されている様子がよく分かり、とても良いです。


進んでゆくと、さらに大きな門がありました。
これほど大きな門が続く城は珍しく、さすが「天下の巨城」小田原城です。


そして、いよいよ小田原城天守に至りました。
白亜の天守が美しい小田原城天守。
鉄筋コンクリート造の再建ですが、戦国の雰囲気を伝えてくれています。
周囲の念入りな再建工事から、天守も「往時をそのまま」復元したと思われます。
広大な城の広がりと比較すると、「やや小規模」であるように見える天守。
それもそのはずで、天守は主に当時の最先端地域であった近畿付近から発生しました。





この松永久秀の
多聞山城が初の天守よ!
諸説ありますが、松永久秀の多聞山城が最初の天守と言われています。
信長が今日に入る前は、「京の政治のボス格」であった松永久秀。
その強力な政治力と経済力に加え、類稀なる軍事力・築城力を活かした松永は、



これからは、城の中心には
天守が高く聳えるのだ!
「天守」という城の形式を日本全国に広める「先導役」となりました。


二代目・氏綱の頃から、本格的な築城に取り掛かったと思われる小田原城。
その築城・普請が本格化したのは、三代目・氏康の時代と思われます。
当時の関東は後進地域でしたが、小田原の街の商業は極めて盛んでした。
すぐ近くには、「東の小京都」駿河もあり、小田原は極めて流通が盛んな都市でした。
そのため、松永の「多聞山城の天守」の話は、早々に北条氏康の耳に入ったでしょう。



城の中心に
天守という、高い建物を築くのか・・・



確かに、城の高さを
高くすれば、権威を周囲に知らしめられるな・・・
多聞山城や山城であり、後の織田信長の岐阜城・安土城と強い関係性が見られます。
対して、広大な関東平野の端である小田原に築いた平城の小田原城。
さらに、「民衆重視」で税率が低かった北条帝国においては、



民衆を圧するよりも、
民衆に近く、が良い・・・



そのためには、
高さが高い天守は、我が北条には不必要・・・
おそらく、「民衆に近い目線」を重視した氏康は、こう考えたでしょう。



さらに、その高い天守は
維持費も高額になりそうだ・・・



我が天下一の小田原城は
「平城の天下一」で良い!
この氏康の考えを継承した氏政は、



我が北条帝国を
強化し、小田原城も拡張する!



天守は
高くせんで良い!



広く、外へ、外へ
伸びてゆくのだ!
歴代北条当主が「外へ広く」と考えた結果、思惑通り「天下一の特大平城」となった小田原城でした。