前回は「空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像〜独創的斬新な戦法への異常な執着・古い「海戦要務令」を公然と批判・大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」〜」の話でした。
神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われる大西瀧治郎の実像
第二次世界大戦・太平洋戦争において、世界中で論議の的となっている神風特別攻撃隊。
そして、この神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われるのが大西瀧治郎です。
小沢治三郎が「空母機動部隊の生みの親」など、様々な「生みの親」がいます。
その中、大西の「特攻の『生みの親』」は少し、というか、かなり異和感があります。
この異和感こそが「特攻の『生みの親』」と「生みの親」に括弧をつける理由です。
その圧倒的存在感・知性・能力・航空隊への思いなどから、「特攻の生みの親」に旧日本海軍で最も相応しい大西。
統率の外道だが・・・
これしかない・・・
現代、神風特別攻撃隊は「かみかぜとくべつこうげきたい」と呼びます。
実は、神風特別攻撃隊が出撃した当時は「かみかぜ」ではなく「しんぷう」と呼んでいた説があります。
この「読み方」には諸説あり、当時の陸海軍の関係者の証言も異なります。
分かりやすい「かみかぜ」に対して、「しんぷう」の方が高尚なイメージがあるかもしれません。
ここでは、一般的な「かみかぜ」で通したいと思います。
大日本帝国海軍大幹部の意向と神風:及川古志郎と源田実
現代から見れば、戦争末期の1944年、すでに日本の敗色は濃厚でした。
陸軍はともかく、大日本帝国海軍は米海軍に「押されっぱなし」の状況だったのです。
「日本海軍の星」の連合艦隊の中心人物・山本長官は、既に前年1943年4月18日に戦死していました。
山本長官の死は「米軍の暗号解読により、最前線視察中に撃墜された」結果の戦死。
この「山本長官の戦死」には、「山本が半ば望んでいたような」形跡もあります。(諸説あり)
すでに米軍によって大日本帝国軍の暗号解読が進み、兵力も物量も圧倒的な差がついていたのが現実でした。
前線の将兵から見れば、
これは、我が大日本帝国海軍は
圧倒的に不利だ・・・
米海軍に勝つことは
もはや不可能では・・・
誰がどう考えても「米軍に勝つ」のは不可能であり、「夢のまた夢のまた夢」であった当時。
これは、絶対に
100%日本は敗北する・・・
ああ・・・
もはや勝つ見込みはないな・・・
少なくとも、どんな奇策であっても
普通の攻撃ではな・・・
こうなっては「降伏するしかない」のが現代の視点ですが、当時の将兵たちに「降伏」はありません。
我が軍が圧倒的に劣勢であり、
米海軍の航空隊は強力過ぎる・・・
もはやどうやっても
普通の攻撃では米海軍の撃破は不可能・・・
誰の目からも「普通の攻撃」では、米海軍に勝つことは絶対に不可能でした。
この中、前線の将兵たちからは、
もはや、自爆攻撃を
するしか手段がないのでは無いか・・・
うむ・・・
それしか手段はないかもな・・・
という声も上がっていた説もあります。(諸説あり)
それまでにも、戦場では「自らの判断で、自らの生命と引き換えに敵を地獄へ」という攻撃はありました。
・・・・・
この頃、軍令部総長であった及川古志郎。
真珠湾奇襲攻撃時には、海軍大臣であった及川は凡庸極まりない人物でした。
凡庸過ぎるものの失点がないため、順調に出世して、ついに軍令部総長になっていた及川。
職責 | 権限 | ||
軍令部総長 | 軍令の最高意思決定者 | ||
海軍大臣 | 軍政の最高意思決定者 | ||
連合艦隊司令長官 | 海戦の指揮者 |
自爆攻撃を
命令するわけにはいかんな・・・
まあ、そうですが・・・
それしか残っていません・・・
まあ、
そうだが・・・
くれぐれも
命令はしてくれるなよ・・・
及川軍令部総長は、大西に神風特別攻撃隊の「黙認を与えた」と言われます。
本来は「命令を与える最高責任者」である軍令部総長。
それにも関わらず、「神風」に及川は「大して関与していない」扱いです。
この日本的な発想から、「大西が神風の生みの親」となったのでしょう。
そして、及川が「凡庸過ぎて、神風には相応しくない」こともあります。
もう一人、「神風の責任者であるべき」人物は源田実です。
当時、「海軍航空隊のエース」であり、もちろん大幹部の一人であった源田。
源田が神風の出撃命令に関して「知らなかった」はずはないのです。
ところが、戦後、航空幕僚長・参議院議員となった源田は、
特攻隊は
・・・・・
神風特別攻撃隊に関しては、口をつぐみ続けたのでした。
大西第一航空艦隊司令長官と敷島隊の出撃:神となった特攻隊員
いよいよ、最初の神風特別攻撃隊が発進する時期が到来しました。
第一航空艦隊司令長官の
大西である・・・
1944年10月17日に大西がマニラに第一航空艦隊司令長官内定して到着後、3日後のことでした。
神風特別攻撃隊として出撃する若者たちにとっては「上官からの命令」とは言え、わずか3日。
3日で神風特別攻撃隊の出撃が決定し、実際に若者達が出撃しました。
当時を描く様々な書籍・映画などでは「自ら志願」という描き方もあり、諸説あります。
原則としては「軍・上官からの命令」であり、若き隊員たちは「勇んで出撃した」と伝えられます。
海兵卒業期 | 名前 | 役職 | |
29 | 米内光政 | 海軍大臣 | |
31 | 及川古志郎 | 軍令部総長 | |
33 | 豊田副武 | 連合艦隊司令長官 | |
40 | 大西瀧治郎 | 第一航空艦隊司令長官 | |
70 | 関行男 | 敷島隊隊長 |
この戦況を変えられるのは、
大臣でも大将でも軍令部総長でもない・・・
それは若い君たちのような純真で
気力に満ちた人たちである!
諸君はすでに
神である・・・
と、神風特別攻撃隊の最初の出撃隊である敷島隊を激励した大西。
日本海軍で「最も豪気な男」であった大西ですが、内心は、
このような
命令を下さねばならないとは・・・
諸君だけを行かせることは
絶対にしない!
と思っていたでしょう。
そして、
国家国民にために・・・
頼む・・・
と隊員たちと「今生の別れ」をした大西長官。
心の中では、
俺も後で
必ず、必ず・・・
これは俺と貴様たちとの間の
絶対の約束だ!
と考えていたはずの大西。
大西瀧治郎は終戦の日に、その「約束」を確かに果たしました。