神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われる大西瀧治郎の実像〜大西第一航空艦隊司令長官と敷島隊の出撃・神となった特攻隊員・大日本帝国海軍大幹部の意向と神風・及川古志郎と源田実〜|大西瀧治郎1・能力・エピソード

前回は「空母機動部隊の生みの親・小沢治三郎の実像〜独創的斬新な戦法への異常な執着・古い「海戦要務令」を公然と批判・大艦巨砲主義に対抗する「航空艦隊編成」〜」の話でした。

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大西瀧治郎 第一航空艦隊司令長官(Wikipedia)
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神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われる大西瀧治郎の実像

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知覧特攻平和会館(新歴史紀行)

第二次世界大戦・太平洋戦争において、世界中で論議の的となっている神風特別攻撃隊。

そして、この神風特別攻撃隊の「生みの親」と言われるのが大西瀧治郎です。

小沢治三郎が「空母機動部隊の生みの親」など、様々な「生みの親」がいます。

その中、大西の「特攻の『生みの親』」は少し、というか、かなり異和感があります。

この異和感こそが「特攻の『生みの親』」と「生みの親」に括弧をつける理由です。

その圧倒的存在感・知性・能力・航空隊への思いなどから、「特攻の生みの親」に旧日本海軍で最も相応しい大西。

統率の外道だが・・・
これしかない・・・

現代、神風特別攻撃隊は「かみかぜとくべつこうげきたい」と呼びます。

実は、神風特別攻撃隊が出撃した当時は「かみかぜ」ではなく「しんぷう」と呼んでいた説があります。

この「読み方」には諸説あり、当時の陸海軍の関係者の証言も異なります。

分かりやすい「かみかぜ」に対して、「しんぷう」の方が高尚なイメージがあるかもしれません。

ここでは、一般的な「かみかぜ」で通したいと思います。

大日本帝国海軍大幹部の意向と神風:及川古志郎と源田実

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及川古志郎 軍令部総長(Wikipedia)

現代から見れば、戦争末期の1944年、すでに日本の敗色は濃厚でした。

陸軍はともかく、大日本帝国海軍は米海軍に「押されっぱなし」の状況だったのです。

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山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

「日本海軍の星」の連合艦隊の中心人物・山本長官は、既に前年1943年4月18日に戦死していました。

山本長官の死は「米軍の暗号解読により、最前線視察中に撃墜された」結果の戦死。

この「山本長官の戦死」には、「山本が半ば望んでいたような」形跡もあります。(諸説あり)

すでに米軍によって大日本帝国軍の暗号解読が進み、兵力も物量も圧倒的な差がついていたのが現実でした。

前線の将兵から見れば、

これは、我が大日本帝国海軍は
圧倒的に不利だ・・・

米海軍に勝つことは
もはや不可能では・・・

誰がどう考えても「米軍に勝つ」のは不可能であり、「夢のまた夢のまた夢」であった当時。

これは、絶対に
100%日本は敗北する・・・

ああ・・・
もはや勝つ見込みはないな・・・

少なくとも、どんな奇策であっても
普通の攻撃ではな・・・

こうなっては「降伏するしかない」のが現代の視点ですが、当時の将兵たちに「降伏」はありません。

我が軍が圧倒的に劣勢であり、
米海軍の航空隊は強力過ぎる・・・

もはやどうやっても
普通の攻撃では米海軍の撃破は不可能・・・

誰の目からも「普通の攻撃」では、米海軍に勝つことは絶対に不可能でした。

この中、前線の将兵たちからは、

もはや、自爆攻撃を
するしか手段がないのでは無いか・・・

うむ・・・
それしか手段はないかもな・・・

という声も上がっていた説もあります。(諸説あり)

それまでにも、戦場では「自らの判断で、自らの生命と引き換えに敵を地獄へ」という攻撃はありました。

・・・・・

この頃、軍令部総長であった及川古志郎。

真珠湾奇襲攻撃時には、海軍大臣であった及川は凡庸極まりない人物でした。

凡庸過ぎるものの失点がないため、順調に出世して、ついに軍令部総長になっていた及川。

職責権限
軍令部総長軍令の最高意思決定者
海軍大臣軍政の最高意思決定者
連合艦隊司令長官海戦の指揮者
海軍兵学校卒業期(真珠湾奇襲攻撃決定時)

自爆攻撃を
命令するわけにはいかんな・・・

まあ、そうですが・・・
それしか残っていません・・・

まあ、
そうだが・・・

くれぐれも
命令はしてくれるなよ・・・

及川軍令部総長は、大西に神風特別攻撃隊の「黙認を与えた」と言われます。

本来は「命令を与える最高責任者」である軍令部総長。

それにも関わらず、「神風」に及川は「大して関与していない」扱いです。

この日本的な発想から、「大西が神風の生みの親」となったのでしょう。

そして、及川が「凡庸過ぎて、神風には相応しくない」こともあります。

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源田実 第一航空参謀(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

もう一人、「神風の責任者であるべき」人物は源田実です。

当時、「海軍航空隊のエース」であり、もちろん大幹部の一人であった源田。

源田が神風の出撃命令に関して「知らなかった」はずはないのです。

ところが、戦後、航空幕僚長・参議院議員となった源田は、

特攻隊は
・・・・・

神風特別攻撃隊に関しては、口をつぐみ続けたのでした。

大西第一航空艦隊司令長官と敷島隊の出撃:神となった特攻隊員

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大西長官と神風特別攻撃隊・敷島隊の訣別の水盃(中央で隊員を見て背を向けているのが大西長官):1944年10月20日(Wikipedia)

いよいよ、最初の神風特別攻撃隊が発進する時期が到来しました。

第一航空艦隊司令長官の
大西である・・・

1944年10月17日に大西がマニラに第一航空艦隊司令長官内定して到着後、3日後のことでした。

神風特別攻撃隊として出撃する若者たちにとっては「上官からの命令」とは言え、わずか3日。

3日で神風特別攻撃隊の出撃が決定し、実際に若者達が出撃しました。

当時を描く様々な書籍・映画などでは「自ら志願」という描き方もあり、諸説あります。

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関行男 敷島隊隊長(Wikipedia)

原則としては「軍・上官からの命令」であり、若き隊員たちは「勇んで出撃した」と伝えられます。

海兵卒業期名前役職
29米内光政海軍大臣
31及川古志郎軍令部総長
33豊田副武連合艦隊司令長官
40大西瀧治郎第一航空艦隊司令長官
70関行男敷島隊隊長
神風特別攻撃隊・敷島隊発進時の海軍関係者

この戦況を変えられるのは、
大臣でも大将でも軍令部総長でもない・・・

それは若い君たちのような純真で
気力に満ちた人たちである!

諸君はすでに
神である・・・

と、神風特別攻撃隊の最初の出撃隊である敷島隊を激励した大西。

日本海軍で「最も豪気な男」であった大西ですが、内心は、

このような
命令を下さねばならないとは・・・

諸君だけを行かせることは
絶対にしない!

と思っていたでしょう。

そして、

国家国民にために・・・
頼む・・・

と隊員たちと「今生の別れ」をした大西長官。

心の中では、

俺も後で
必ず、必ず・・・

これは俺と貴様たちとの間の
絶対の約束だ!

と考えていたはずの大西。

大西瀧治郎は終戦の日に、その「約束」を確かに果たしました。

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