前回は「当時最高高さ「6階建て」の高知城〜「一番の高さ」への一豊の思い・丁寧に造作された開口部・籠城戦に配慮した多数の板張付開口部〜」の話でした。
高知の街を睥睨する高知城天守閣:土佐を育んだ山々と海

小高い丘の上にある「外観は4重、内部は3層6階建て」である高知城の天守閣。
街中から見ると、見上げるように高い天守閣です。
そして、高知城が建築された江戸初期では、最も高い建築の一つでした。

昔ながらの城郭建築で頻繁に見かける、傾斜が急過ぎる階段を上がってゆきます。

いよいよ、天守閣の最も高いところに来ました。
上の写真は、最初に高知城を見上げた街中を見る方向です。

反対側の街中から見たのが、上の写真であり、天守閣の高さが良く分かります。

天守閣周囲の高知城の様子がよく分かり、土佐を育んできた山々が美しいです。

山内一豊どうだ!
高いだろう!



徳川の時代となり、
平和な時代となった・・・



豊臣の家臣であったが、
今は徳川の家臣の山内家だ!



新たな時代に相応しい
城を普請したのだ!
このような山内一豊の叫びが聞こえてきそうです。
土佐藩率いた板垣退助像:「合戦」同様だった捕鯨と土佐の歴史


天守閣から降りると「東多聞」と呼ばれる、低層の建物があります。
この「多聞」という言葉は仏教用語であり、「毘沙門天」や「多くの教えを聞くこと」を示します。


上杉謙信が深く信仰した毘沙門天は、いかにも強そうであり、毘沙門天につながる多聞という言葉。
この「多聞」という言葉は、「強そうで縁起が良い」ので櫓などに多用されました。


大東亜戦争で活躍した山口多聞もまた、この多聞に連なる名前です。
真珠湾奇襲攻撃における、山口多聞に関する話を上記リンクでご紹介しています。


東多聞の内部には、「土佐と鯨」に関する展示が多数あります。
「土佐といえば鯨」と言っても良いほど、鯨が重要だった土佐。


鯨を取るのは、文字通り「戦い」であり、「合戦」でした。


農耕民族である日本人にとって、捕鯨は最も危険な食料確保の手段だったでしょう。


巨大な鯨を倒した後は、大きな刃物で解体して、その肉を食用としました。
また、江戸時代には鯨の油を活用して、火や炎とする活用法も重要でした。


小さな規模ですが、こちらも天守閣同様、「昔のままの作り」で、日本古来の建築空間です。


東多聞は、上の写真のように、石垣と石垣の間に掛けられた橋のような構造です。
スパンがかなり飛んでいるので、平屋といども木造で作るのは、かなりの技術が必要でした。


天守閣と東多聞を訪問した後は、高知城を下ってゆきます。
降る途中、天守閣を見上げたのが上の写真で、やはりかなり高く、かなりの威圧感があります。


高知城の麓には、板垣退助の銅像があります。


| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎(村田 蔵六) | 1825 | 長州 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 武市 瑞山 | 1829 | 土佐 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 江藤 新平 | 1834 | 佐賀 |
| 坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
| 板垣(乾) 退助 | 1837 | 土佐 |
| 中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
幕末において、多少地味な存在となった板垣(乾)退助。



板垣死すとも
自由は死せず!
この言葉が有名ですが、幕末維新では土佐藩を率いるトップクラスの将軍でした。
いわば、土佐は「板垣に率いられた」と言っても良い極めて重要な存在でした。
戦国から江戸、そして幕末維新まで味わえる高知城。
ぜひ、高知訪問の際には、高知城を訪れて下さい。
次回は上記リンクです。



