前回は「骨太な石垣がある高知城〜初めて「我が城を築城」した山内一豊・小高い位置にドンと構える天守閣・日の丸国旗掲揚の天守閣前広場〜」の話でした。
広々とした柱梁の軸組建築の空間:「格の違い」示す座敷の段違い

小高い岡に築かれているため、地上からは見上げるような天守閣である高知城。

階段を登って、やっと天守閣の目前まで到達しました。
いよいよ、現存十二天守の一つである天守閣内部に向かいます。
ここ高知城では、天守閣の脇に御殿があります。

屋敷のような空間の御殿は、純和風の日本建築の空間が広がります。
上の写真のように、梁を柱で支えて壁が少なく、開放的な柱と梁の軸組建築が美しいです。
天守閣付近であるため、庭は少し狭いですが、庭と座敷の空間を広縁が結びます。

この空間は天守閣とは別であり、藩主が政務を執ったり、来客と会う空間と思われます。
ほぼ正方形のボリュームに、長方形のボリュームが斜めに貫入する面白い空間構成です。

この空間の一角の座敷の空間は、奥の段が少し上がっています。
この「段の高さが違う」のは、「格が違う」ことを示しています。
おそらく、奥の方の「高い段の座敷」には、藩主など高い身分の人が座る部分と思われます。
この座敷の「段が違う」ことは、日本語の「段違い」の語源の一つと思われます。
美しい日本的空間を作った一豊の思い:「鯨酔侯」山内容堂の書と座敷

そして、先ほどの、「段が高い」座敷の奥には、、非常に達筆な書が掲げられていました。

この書は、第十五代藩主だった山内豊信(容堂」による詩書「夕暮曲」です。

山内容堂このワシが
山内容堂じゃ!



ワシは酒が好きで、
昼間から飲んでおる!
「鯨酔侯」の異名がある大豪傑であった山内容堂は、幕末維新のキーパーソンの一人です。
「土佐藩と言えば山内容堂」というほど、土佐藩主では圧倒的に知名度が高い山内容堂。
この天守閣付近の日本建築は、土佐藩の「大藩としての意識」を強く感じます。


天守閣のすぐ近くに、平屋の御殿のような建築が配置される例は少ないです。
例えば、上の彦根城では、彦根城天守付近は地面が広がるのみです。
彦根城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。





6万石の掛川城主から
一気に24万石の土佐国主へ!



偉大な山内家の
巨城を建築して見せよう!
| 名前 | 生年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 山内一豊 | 1546年 |
| 石田三成 | 1560年 |
| 福島正則 | 1561年 |
| 加藤清正 | 1562年 |
やや「遅咲き」だった山内一豊は、55歳(数え年」の頃に「初めて一国の主」となりました。
もともと6万石であったため、山内家の資金力は大きなものではありませんでした。
それにも関わらず、「一気に24万石」となった「大大名の一角」を誇示したかった山内一豊。



長宗我部が築城した高知城を
大きく発展させる!
長宗我部元親が、本拠地として10年ほど経過していた高知城は、城の骨格はできていました。
ところが、おそらく、本格的な天守閣はなかったと思われ、「立派な天守閣」を作ることを決めた一豊。



天守閣の近くには、
我が山内家が家臣に会う別の空間を作る!
天守閣や巨大な石垣などを築城するだけでも、大金がかかるのに、わざわざ「別の建築」を建てました。


岡豊城から、浦戸城、そして高知城に移転した長宗我部元親。
この「移転の理由」は不明ですが、



我が山内家は、
ここ高知城から一切移転せぬ!



永遠に、この高知城が
山内家のものなのだ!
このような山内一豊の叫びが聞こえてきそうです。


先ほどの広間の「段が高い」藩主側から見た写真が上の写真です。
非常に開放的で、美しい純和風の日本建築の空間が広がります。
「防衛のための城塞」である天守閣では、このような「開放的な空間」は作れません。



ふっふっふ・・・
良いだろう・・・



光が淡く入り込む
座敷は、天守閣では作れん・・・



この日本的な美しい空間で
山内家は政務を執るのだ!
このような、「やっと、そして、いよいよ大大名になった」山内一豊の意気込みが感じられる空間です。


