美しい日本的空間を作った一豊の思い〜「鯨酔侯」山内容堂の書と座敷・広々とした柱梁の軸組建築の空間・「格の違い」示す座敷の段違い〜|高知城6・土佐の象徴

前回は「骨太な石垣がある高知城〜初めて「我が城を築城」した山内一豊・小高い位置にドンと構える天守閣・日の丸国旗掲揚の天守閣前広場〜」の話でした。

目次

広々とした柱梁の軸組建築の空間:「格の違い」示す座敷の段違い

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高知城(新歴史紀行)

小高い岡に築かれているため、地上からは見上げるような天守閣である高知城。

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高知城(新歴史紀行)

階段を登って、やっと天守閣の目前まで到達しました。

いよいよ、現存十二天守の一つである天守閣内部に向かいます。

ここ高知城では、天守閣の脇に御殿があります。

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高知城(新歴史紀行)

屋敷のような空間の御殿は、純和風の日本建築の空間が広がります。

上の写真のように、梁を柱で支えて壁が少なく、開放的な柱と梁の軸組建築が美しいです。

天守閣付近であるため、庭は少し狭いですが、庭と座敷の空間を広縁が結びます。

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高知城(新歴史紀行)

この空間は天守閣とは別であり、藩主が政務を執ったり、来客と会う空間と思われます。

ほぼ正方形のボリュームに、長方形のボリュームが斜めに貫入する面白い空間構成です。

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高知城(新歴史紀行)

この空間の一角の座敷の空間は、奥の段が少し上がっています。

この「段の高さが違う」のは、「格が違う」ことを示しています。

おそらく、奥の方の「高い段の座敷」には、藩主など高い身分の人が座る部分と思われます。

この座敷の「段が違う」ことは、日本語の「段違い」の語源の一つと思われます。

美しい日本的空間を作った一豊の思い:「鯨酔侯」山内容堂の書と座敷

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高知城(新歴史紀行)

そして、先ほどの、「段が高い」座敷の奥には、、非常に達筆な書が掲げられていました。

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高知城(新歴史紀行)

この書は、第十五代藩主だった山内豊信(容堂」による詩書「夕暮曲」です。

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土佐藩主 山内容堂(Wikipedia)
山内容堂

このワシが
山内容堂じゃ!

山内容堂

ワシは酒が好きで、
昼間から飲んでおる!

「鯨酔侯」の異名がある大豪傑であった山内容堂は、幕末維新のキーパーソンの一人です。

「土佐藩と言えば山内容堂」というほど、土佐藩主では圧倒的に知名度が高い山内容堂。

この天守閣付近の日本建築は、土佐藩の「大藩としての意識」を強く感じます。

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彦根城(新歴史紀行)

天守閣のすぐ近くに、平屋の御殿のような建築が配置される例は少ないです。

例えば、上の彦根城では、彦根城天守付近は地面が広がるのみです。

彦根城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

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高知城:山内一豊像(新歴史紀行)
山内一豊

6万石の掛川城主から
一気に24万石の土佐国主へ!

山内一豊

偉大な山内家の
巨城を建築して見せよう!

名前生年
羽柴秀吉1537年
山内一豊1546年
石田三成1560年
福島正則1561年
加藤清正1562年
羽柴秀吉と豊臣家有名武将と山内一豊の生年

やや「遅咲き」だった山内一豊は、55歳(数え年」の頃に「初めて一国の主」となりました。

もともと6万石であったため、山内家の資金力は大きなものではありませんでした。

それにも関わらず、「一気に24万石」となった「大大名の一角」を誇示したかった山内一豊。

山内一豊

長宗我部が築城した高知城を
大きく発展させる!

長宗我部元親が、本拠地として10年ほど経過していた高知城は、城の骨格はできていました。

ところが、おそらく、本格的な天守閣はなかったと思われ、「立派な天守閣」を作ることを決めた一豊。

山内一豊

天守閣の近くには、
我が山内家が家臣に会う別の空間を作る!

天守閣や巨大な石垣などを築城するだけでも、大金がかかるのに、わざわざ「別の建築」を建てました。

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高知城(新歴史紀行)

岡豊城から、浦戸城、そして高知城に移転した長宗我部元親。

この「移転の理由」は不明ですが、

山内一豊

我が山内家は、
ここ高知城から一切移転せぬ!

山内一豊

永遠に、この高知城が
山内家のものなのだ!

このような山内一豊の叫びが聞こえてきそうです。

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高知城(新歴史紀行)

先ほどの広間の「段が高い」藩主側から見た写真が上の写真です。

非常に開放的で、美しい純和風の日本建築の空間が広がります。

「防衛のための城塞」である天守閣では、このような「開放的な空間」は作れません。

山内一豊

ふっふっふ・・・
良いだろう・・・

山内一豊

光が淡く入り込む
座敷は、天守閣では作れん・・・

山内一豊

この日本的な美しい空間で
山内家は政務を執るのだ!

このような、「やっと、そして、いよいよ大大名になった」山内一豊の意気込みが感じられる空間です。

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