前回は「海から世界を見つめた坂本龍馬と桂浜〜広く太平洋に視線が広がっていた土佐と薩摩・内向きの「佐幕」派と外向きの「倒幕・討幕」派・徳川と江戸の求心力〜」の話でした。
太平洋に開いた土佐国と瀬戸内海に開いた伊予国

今年2025年の夏休みは、四国を訪問する旅に出ました。
大学院生の頃に、四国を初めて訪問し、坂本龍馬ゆかりの地を多数行きました。


土佐と言ったら、
桂浜ぜよ!
龍馬がこう言いそうなほど、歴史好きが土佐(高知)に行ったら、「まずは桂浜」です。


久しぶりに桂浜を訪れ、坂本龍馬の像の前に立ちましたが、その巨大さに驚きました。
20年以上前になりますが、かつて来た記憶よりも遥かに大きかったのが坂本龍馬の銅像です。


日本各地に様々な偉人・威人たちの銅像がありますが、坂本龍馬の銅像は最大規模の一つです。
鹿児島には、西郷隆盛・大久保利通をはじめとする多数の銅像があります。
鹿児島に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


太平洋に向かって大きく開いた土佐国。
かつては、「京・山城が中心」であったのが、日本の国家像でした。
江戸時代が始まるまでは、武蔵国(東京)周辺は「後進地域」でした。
そして、「京・山城の影響力や文化」が、「直接的に及んでいた」のが土佐国でした。
当時の様々な国々においても、現在の都道府県においても、最も「太平洋に開いている」のが土佐です。
それに対して、隣国の伊予は瀬戸内海に開いており、阿波は大阪湾に開いています。
坂本龍馬脱藩之日記念館:「長宗我部と山内の相剋」から龍馬脱藩へ


伊予の山奥に入ってゆくと、「海に開けた四国」の雰囲気は一気になくなってゆき、山が続きます。
そして、山を流れる川の存在が急に強くなるのが感じられます。


今回は、愛媛県の川辺町にある「河辺ふるさとの宿」に宿泊しました。
廃校となった小学校をリノベーションした、心地よい空間です。


そして、「河辺ふるさとの宿」から歩いてすぐのところにあるのが、坂本龍馬脱藩之日記念館です。
坂本龍馬記念館を含めて、龍馬に関する様々な場所を訪問しましたが、「脱藩の道」は初めてです。


坂本龍馬脱藩之日記念館は、伊予の山々に囲まれ、比較的大きな河辺川の脇にあります。


中には、決死であったであろう「龍馬脱藩行」のプロセスが展示されています。



もはや、土佐藩には
居たくない!
「士農工商」であり「武士が頂点」だった、封建制度の江戸時代。
坂本龍馬は「才谷屋」という豪商の家柄であり、経済的には一切不自由しない恵まれた家に生まれました。
さらに、商人ながら「郷士」という「武士の下っ端」でもあった坂本龍馬。
側から見れば、「裕福な商人と頂点の武士を併せ持つ」立場であるはずでした。


諸藩同様、武士には「上士と下士」に別れていた土佐藩。
ところが、土佐藩では「上士と下士」の違いは、諸藩よりも遥かに巨大でした。



我が土佐藩では、
上士こそが重要なのだ!



元の長宗我部家につながる
下士など、遥かに下!



我が山内家に古くから
仕えてきた上士がいれば良いのだ!
1600年の関ヶ原の合戦までは、土佐は「四国の覇王・長宗我部家」の領土でした。
ところが、「関ヶ原」で敗北したために、土佐を没収された長宗我部家。
代わりに土佐に入国したのが、そもそも「長宗我部よりも遥かに格下」であった山内家でした。





山内一豊は、
私に古くから支えてくれた・・・
そもそも、羽柴秀吉の頃からずっと仕えてきた山内一豊。



山内一豊は、取り立てて
大きな才はないが・・・



実直であり、豊臣のために
尽くしてくれそうだから・・・



遠江掛川城6万石を
任せよう!
秀吉配下の加藤清正・福島正則・石田三成のように「光るもの(才能)」が薄かった一豊。
とは言っても、「秀吉の子飼い」であった一豊は、その人柄も見込まれて遠江掛川城を任されました。
ところが、「関ヶ原」では、真っ先に「豊臣を裏切り、徳川方へ走った」山内家。
その功績で「新たな土佐国主」となりましたが、「後ろめたさ」はあったでしょう。
それに対して、「四国を武力制圧しかけた覇王」であった長宗我部家。
どう考えても、「長宗我部が山内の上」であり、これが屈折した「上士と下士」となりました。
そして、下士の下っ端の郷士である立場だった坂本龍馬は、「土佐藩では全く重視されない立場」でした。



土佐を脱藩して、
我が道をゆく!
坂本龍馬に関しては、諸説あり、その功績は「高評価され過ぎている」傾向もあります。
いずれにしても、「維新の回天」に大きく関わった坂本龍馬。
歪すぎる土佐藩の国情こそが、「幕末維新の回天者」龍馬を産んだと言って良いでしょう。
次回は上記リンクです。