前回は「坂本龍馬脱藩之日記念館〜「長宗我部と山内の相剋」から龍馬脱藩へ・太平洋に開いた土佐国と瀬戸内海に開いた伊予国〜」の話でした。
土佐から伊予へ向かった「龍馬決死の脱藩行」:陸の山中の隠密行動

愛媛県川辺町にある「坂本龍馬脱藩之日記念館」を訪問しました。

こじんまりした規模の記念館で、周囲を伊予の山と川に囲まれています。


土佐藩脱藩の、
坂本龍馬ぜよ!
脱藩したものの、「坂本龍馬といえば土佐(高知)」ですが、ここ伊予(愛媛)に龍馬記念館がある理由。



私は郷士であり、
武士の下っ端・・・



我が土佐藩では、
上士と下士の身分の差が大きすぎる・・・



こうなったら、
土佐藩の世界を脱するしかない!



そして、土佐藩を脱藩して、
違う世界へ!
それは、幕末に坂本龍馬が様々な仕事を成し遂げる過程で、「土佐藩を脱藩した」からです。



まずは脱藩して、
長州へ向かう!


そして、土佐から長州へ向かう経路は、まさに伊予(愛媛)を通ったからです。
ここ愛媛県川辺町は、諸説ある中、「坂本龍馬が脱藩の際に通った」伝説があります。
上の「坂本龍馬脱藩経路」をみると、龍馬が土佐から長州へ向かうには、



まずは、土佐の山中を
脱走して、脱藩だ!
山々を脱走して土佐国を脱出した後、「伊予を通過する」必要があります。
当時も現代も、土佐から長州へは「船で移動」することも可能ですが、



脱藩は見つかったら、
終わりぜよ・・・
当時、日本の諸藩は「それぞれが国家」のようなものであり、「脱藩=国家を脱出すること」でした。



脱藩は隠密に
行わねば・・・
隠密性が最重要であった脱藩では、「海での移動」は「最小限にする必要」がありました。
発覚した場合、「海での移動」は「陸での移動」よりも危険性が遥かに高いのが最大の理由でした。
謎に満ちた「龍馬脱藩行の経路」


幕末の志士たちの中でも、坂本龍馬の人気は圧倒的です。


「龍馬人気が極めて高い」理由の一つは、司馬遼太郎による「龍馬がゆく」の斬新さにあります。
筆者も高校生〜大学生の頃に読んだ「龍馬がゆく」では、龍馬が縦横無尽に幕末を駆け巡ります。
「龍馬がゆく」における坂本龍馬は、「かなり脚色されている」のが実情です。
歴史の真実から「離れている面」が多いですが、歴史小説として極めて面白いです。


討幕の原動力となった「薩長土肥」の各藩は、いずれも下級藩士が中心となった傾向が強いです。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
特に、筆者が「維新の四傑」と考える西郷・大久保・木戸・岩倉。
この中で、木戸は長州藩の中でも上士の方でしたが、それほど高い身分ではありませんでした。
西郷・大久保は薩摩の「下っ端層」であり、岩倉もまた「下っ端公家」でした。


この中、身分秩序が異常に厳しかった土佐藩は、「上士の関与」が強い傾向がありました。
・薩摩:元々守護の家柄だった「根っからの大名」薩摩家
・長州:豪族(国衆)から「成り上がった大名」毛利家
・土佐:豊臣家の家臣から徳川家家臣へ移行した「家臣出身大名」山内家
・肥前:豪族(国衆)から成り上がった龍造寺家の「「重臣出身大名」鍋島家
上のように、「薩長土肥の成り立ち」はそれぞれであり、超正統派の薩摩と正統派の長州でした。
そして、土佐と肥前は、やや「格が落ちる」状況の中、土佐は元々は「豊臣・徳川の家臣」でした。



我が山内家は
徳川家に引き立てられた家柄・・・



外様といえども、
徳川のために働くのだ!
薩長土肥の中でも、圧倒的に「徳川ファースト」であった土佐。



我が土佐藩は、
山内侍の上士が、藩を動かすのだ!



長宗我部侍由来の下士など、
引っ込んでおれば良い!
そして、土佐藩主・山内容堂が「引っ込んでいれば良い」立場だった坂本龍馬。



こんな世界(土佐藩)は
脱出するしか、ないぜよ!
龍馬がこう考えるのは「当然」でしたが、「脱藩」は極めて大きな飛躍でした。


隠密だったため、資料が一切ないはずの「龍馬脱藩行」。
龍馬と一緒に同行した人物も諸説あり、「龍馬一人」だった可能性もあります。
このなか、坂本龍馬脱藩之日記念館では、「龍馬脱藩行の軌跡」が模型で展示されています。


龍馬が脱藩の際に経由した地のボタンを押すと、上の写真のように光ります。
謎に満ちた「龍馬脱藩行の経路」ですが、河辺周辺を通ったのは間違いなさそうです。
その中、「一つの龍馬脱藩ルート」を仮定して、龍馬の足取りを追うこと。
それは「維新の軌跡を追うこと」にもつながるでしょう。
次回は上記リンクです。