若き頃から卓越した外交術を駆使した北条氏康〜今川と武田との和睦・安定感抜群の三代目迎えた北条家・早期スタートした「戦国の魁・北条」〜|北条氏康7・能力・エピソード

前回は「地元勢力から集中砲火を浴びた「三代目」氏康〜「関東の秩序」破壊した北条・特殊な強権を有した「関東管領」〜」の話でした。

戦国大名 北条氏康(Wikipedia)
目次

安定感抜群の三代目迎えた北条家:早期スタートした「戦国の魁・北条」

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小田原城(新歴史紀行)

戦国最大の規模を誇った巨城・小田原城を拠点としていた北条家。

小田原城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

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大阪(大坂)城(新歴史紀行)

規模が大きな「戦国時代の城」というと、大坂城(昔は大ではなく大と表記)などもあります。

大坂城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

豪華絢爛さでは大坂城に劣るものの、平面的規模では「大坂城と伍す」存在だった小田原城。

そもそも、大坂城は建築時代が異なり、秀吉の「他の大名を圧する」姿勢から生まれた巨城でした。

北条氏康

我が北条家は、小田原を
拠点とする!

初代・早雲(伊勢新九郎)、二代目・氏綱が築き上げた「北条帝国」の三代目・氏康。

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徳川幕府第三代将軍 徳川家光(Wikipedia)
徳川家光

私は生まれながらの
将軍である!

日本の歴史上、「三代目」で有名なのは「徳川幕府第三代将軍 徳川家光」です。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴秀吉1537年
徳川家康1543年
有名戦国大名の生年

戦国の華を飾る戦国大名たちの中で、「戦国の魁」となった初代・早雲をもつ氏康。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家
国衆(地侍)織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

守護大名から戦国大名化した武田・今川・島津・大友などは、当時は「既存の勢力」でした。

それに対して、北条・織田・徳川などは、はるかに身分が低いところから出発したのが実情でした。

それでも、「早くスタートした」北条家は、すでに氏康の代で安定感抜群の三代目を迎えました。

北条氏康(架空)

私は、生まれながらの
大名である!

氏康が、こう言った記録はありませんが、「こう思っていた」のは間違いないでしょう。

北条氏康

我が北条家は、この
三代目・氏康でさらに飛躍する!

小田原城を拠点に、着実に、バリバリ国力を増強していた北条家はさらに飛躍しようとしていました。

若き頃から卓越した外交術を駆使した北条氏康:今川と武田との和睦

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守護出身の名門戦国大名:左上から時計回りに、武田信玄、今川義元、大友宗麟、島津義弘(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

こうして、意気揚々と勢力を伸長させた北条家は、旧勢力が強い地域・関東にいました。

武田信玄

北条家が、最近
やけに勢力を伸ばしている・・・

今川義元

我が今川家のお家騒動を
助けてくれた早雲殿だが・・・

今川義元

そもそも北条家は、
我が今川家の下風の存在・・・

伊豆・相模から、「ひたすら関東を北上」していた北条家。

その北条家に対して、西の甲斐と駿河から、鋭い睨みが北条家に向かいました。

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鎌倉公方の関東地方支配領域(新歴史紀行)
北条氏康

我が北条家は、
関東の覇者となるのだ!

北条氏康

甲斐や駿河には
侵攻するつもりはない!

おそらく、氏康の頃には、北条家は「関東の覇者」となることを明確に意識していたでしょう。

そして、守護出身の名門・今川家と武田家に対しては、

北条氏康

西には、向かわぬから
放っておいて欲しい・・・

このような思いが、「氏康の本音」だったと考えられます。

武田信玄

だが、隣に大勢力が
出来るのは、思わしくない・・・

どの大名にとっても、「隣国が強力化する」のは好ましいことではありません。

友好関係があれば別ですが、戦国時代において、「友好」はいつまで持続するか不明でした。

武田信玄

やはり、北条は
叩く!

こうして、若き「甲斐の虎」武田晴信と戦うことになった氏康。

北条氏康

やむを得ん・・・
戦いなら受けて立つ!

ここで、甲斐と相模で全面戦争になりかけましたが、

北条氏康

ここは、甲斐の武田とは
和睦を!

武田信玄

うむ・・・
良かろう!

双方が「目を別に向けて」和睦となりました。

この「北条と武田の和睦」には、氏康と晴信(信玄)双方の卓越した外交力がありました。

今川義元

やはり、北条は
叩いておく!

今川義元

そして、可能であれば、
北条を我が今川の従属へ!

超名門であった今川義元は、おそらく「もともと下風の北条を従属へ」と考えたでしょう。

北条氏康

ふざけるな!
我が北条に立ち向かうなら、戦う!

そして、駿河・今川家と相模・北条家は、合戦に至りました。

家督を継いだばかりの1545年頃、まだまだ血気盛んな若者であった北条氏康。

北条氏康

ならば、今川を駿河から
駆逐するまで!

氏康は一度はこう思ったと思われますが、若者ながら慎重な性格であった氏康は、

北条氏康

ここで、今川と争うのは、
関東支配が遠のくだけ・・・

当面の敵は、関東公方(鎌倉公方)や関東管領であった北条氏康。

北条氏康

ここは今川とは
適度なところで和睦を・・・

北条氏康

よしっ、ここは我が
外交術で、今川と手を結ぶ!

そして、若いながら、外交術を駆使して今川との和睦に漕ぎつけた氏康。

今川義元

まあ、北条とは
手を結んでおくか・・・

のちの「甲相駿三国同盟」の基礎となる和睦を主導した氏康。

上杉憲政

おのれ!
北条めが!

北条氏康

これで、関東の旧勢力との
全面戦争に向かえるな・・・

「戦力の集中」によって、関東に乗り込むことにした氏康は「基礎を押さえた」稀代の名将でした。

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