前回は「「現存十二天守」と「天守国宝五城」の松本城〜平成に復元された太鼓門・明治新政府に思惑と廃城令〜」の話でした。
「戦国の城」の代名詞・小田原城:「北条帝国」の本拠地

久しぶりに小田原城を訪問しました。
小田原駅から出ると、小田原城の天守閣が見え、「小田原城中心の街」であることが分かります。
小田原駅から小田原城に向かう通りの向き・ビスタに合わせて、ちょうど天守閣が見えるのが良いです。

小田原駅から小田原城に向かって歩いてゆくと、広大な堀が見えます。
「戦国の城」の代名詞である小田原城。
その規模において、後の大坂城と同程度の、極めて広大な城でした。

北条五代に渡り、北条帝国の中心地であった小田原城。

伊豆の韮崎城から、
関東に攻め込むぞ!
北条家初代の北条早雲(伊勢新九郎)は、「伊豆数万石」から、関東の大名に乗し上がりました。



相模の大森氏を
潰すのだ!



そして、小田原城を
奪取するのだ!
小田原城を奪取して「北条帝国の基礎」を築いた北条早雲。
北条早雲に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
おそらく、早雲が奪取した頃の小田原城は、それほど大きな城ではなかったと思われます。


初期の北条家においては、歴史ある小田原城は、中央付近にありました。
「北条家の本拠地」として、ちょうど良い場所であった小田原城。
その後、武蔵から上野・下総などに勢力を伸ばした北条家は、本拠地を小田原城のままとしました。
「関東の覇者」としては、少し「西に寄り過ぎ」であった小田原城。
北条氏康の代に、仲良く三国同盟を締結する武田家、今川家もまた、本拠地が「東に寄り過ぎ」でした。
東国や関東周辺では、「本拠地は変えないことが正統派」という認識があったように思います。
異様に広大で難攻不落の城:「北条帝国のシンボル」


現代では、だいぶ城の規模が縮小された小田原城ですが、この堀を見ると壮大な姿が想起されます。


堀を横目に進んでゆくと、小田原城の正門に至ります。
「ほとんど全てが復元」である小田原城は、鉄筋コンクリート造です。
門は木造で作られていますが、塀などもコンクリート造と思われます。


昔のままである「現存十二天守」の一つの松本城と比較すると、石垣が「嘘っぽい」感じがします。
松本城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
小田原城の塀の「石垣」は、「石を貼った」感じで「石が支えている」雰囲気は感じられません。
こういう点は「歴史好き」にとっては、少し寂しいですが、なんと言っても「城があること」が大事です。


「かなり縮小された」とは言え、小田原城内は、かなり広いです。
この日は、桜の季節間際だったため、比較的大勢の人が訪問していました。
それでも、上の写真のように「人が写らない画角」で撮影可能なほど、広大であるのが小田原城です。


「戦国随一の規模」を誇る小田原城は、「戦国の終結を飾った」城としても有名です。



豊臣なんぞに
従えるか!



関東に攻め込んでくるなら、
小田原城を攻めてみよ!
戦国時代が急速に終焉に向かおうとしていた1590年、小田原城に「日本中の軍が終結」しました。
豊臣軍20万人に対して、北条家の総力を上げた5万人程度で迎え打った北条氏政。
最後の小田原城籠城戦において、豊臣軍は、陸から海から完全に小田原城を包囲しました。



むむ・・・
豊臣には勝てぬか・・・
そして、最後は小田原城と「共に散った」北条家。
歴史的に超有名な小田原城ですが、小田原城に関する資料等が限定されています。
そのため、「小田原城の真の姿」を知るのは困難な点がありますが、とにかく拡張を続けた小田原城。



北条帝国の
象徴となる巨大な城を!



北条帝国の
シンボルとなる巨大な城を!
おそらく、北条氏綱から北条氏康の頃に、「広大な小田原城」を構築・整備を続けたと思われます。



我が春日山城も
大きな城だが・・・



小田原城は、
異様に広大だのう・・・
「異様に広大」であった小田原城に対しては、上杉謙信も攻めきれず、諦めました。



小田原城は、
攻めきれんのう・・・
そして、武田信玄もまた、そのあまりに巨大で万全であった小田原城を攻めあぐねました。
これほど広大な「北条帝国のシンボル」であると同時に「難攻不落の城」であった小田原城。
その巨大さが、現代でも感じられる小田原城です。
次回は、天守に向かいます。