前回は「旧秩序の勢力から猛反発受けた北条氏康〜満を持して登場した三代目氏康・鎌倉公方と関東管領の影響力〜」の話でした。

「関東の秩序」破壊した北条:特殊な強権を有した「関東管領」

急速な勢い、というよりも猛烈な勢いで、戦国期の関東の覇王となった北条家。
最初は伊豆周辺の小大名だった「関東のよそ者」北条家。
北条は伊豆から相模に侵出し、瞬く間に相模を制圧し、武蔵に乗り込んでゆきました。

当時は、後進地域であった関東は、中央の京・山城からは遠い存在でありました。
そして、足利将軍家から「鎌倉(関東)公方」という特別な職が設けられていました。
ここで、1455年頃から、この鎌倉(関東)公方の内紛が勃発しました。
「享徳の乱」呼ばれる「関東の大乱」につながった時代が戦国の初期です。
鎌倉幕府の流れを汲むとも言える、鎌倉公方。
そして、鎌倉公方を補佐する役職であり、事実上の最高権力者が関東管領でした。

関東エリアでは、
私がNo.1なのだ・・・
北条氏康が三代目を継いだ頃、関東管領は上杉憲政が就任していました。



氏康め・・・
調子に乗るな!
管領は、室町幕府足利将軍家ではNo.2であり、強力な権限を有していました。
将軍に次ぐ立場では「副将軍」がいましたが、副将軍は「お飾り」であり、実権は管領が上でした。
そして、「関東は別」であり、「鎌倉将軍=鎌倉公方」が設立されて関東管領がいました。
この「関東管領」という特殊な役職が作られていたことが、「関東の特殊性」を物語っています。





私が流浪の将軍
足利義昭様を奉じて、入京だ!
上杉憲政と北条氏康が睨み合っていた1546年の22年後の1568年、信長が将軍義昭を奉じて入京。





私が将軍に
なれたのも、織田殿のおかげ・・・



あなたは、私の
父のような存在です・・・



あなたには、副将軍か幕府
No.2の管領に就任して頂きたい・・・
「お飾り」的な副将軍は名誉があり、管領は名誉は副将軍より下がりますが、「実権を持つ」存在でした。



織田殿は、副将軍か管領を
有り難がって・・・



即座に、どちらかの職を
引き受けるだろう・・・
こう思った将軍義昭でしたが、



いえいえ・・・
副将軍も管領も結構です・・・



私は色々と敵を倒して、
平和な世にしなければならないので・・・
「自らは覇王」と考えていた信長は、旧秩序に組み込まれるのを良しとせず、ハッキリ断りました。
いずれにしても、それほど強力であり名誉もあったのが管領という職でした。
この「関東管領による関東の秩序」を破壊したのが北条家であり、三代目の氏康でした。
地元勢力から集中砲火を浴びた「三代目」氏康


そして、内紛でゴタゴタしていたとは言え、「トップは鎌倉公方関東管領」という関東地方。



北条を、
氏康を潰すのだ!
我慢に我慢を続けていましたが、ついに堪忍袋の緒を切った関東管領・上杉家。



諸勢力を集めて、
北条を潰す!



この世から
北条を抹殺するのだ!



関東管領の上杉が、
我らを潰しにかかってきている・・・
その関東地方周辺では、「旧秩序の後継者」である守護から戦国大名となった家が多数ありました。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家 |
国衆(地侍) | 織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家) |



我が今川家は、
足利将軍家に連なる名門だ!
のちに、桶狭間の戦いで、あっけなく消える今川義元は、かなりの存在感を持っていました。



我が武田家は
甲斐源氏だ!
二代目氏綱が1541年に死去し、氏康が正式に「北条家三代目」を継いだ頃、武田晴信は若者でした。
ちょうど、氏康が家督を継いだ1541年、重臣だった板垣信方らと共に父・信虎を追放し、



これで、私が
甲斐武田の当主だ!
21歳(数え年)で、甲斐の新たな当主に就任しました。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
別格に年長者であった毛利元就は別として、戦国の群雄の中では年長者であった北条氏康。



若造どもめが・・・
我が北条は負けん!



まずは、氏綱に
奪われた河越を奪い返す!
1541年に「三代目」に就任直後、関東管領・上杉憲政らは、大挙して河越・江戸に乗り込んできました。
河越城は当時は「武蔵国の中心地」であり、超重要地であるとともに「武蔵国の象徴」だったのでした。



この氏康の
采配を見よ!
「当主就任直後」だった氏康は、周囲の結束力もあり、関東管領軍を撃退しました。
ところが、



下っ端の北条家が、
我が今川よりも領土が広いのは許せん!



北条を攻めて、
今川は東に領土を広げる!
今川義元が、相模や武蔵への侵攻を目論み始め、



我が武田も
甲斐の隣国・武蔵へ攻めるか・・・



武蔵は、後進地だが
農業が盛んだからな・・・
当時、「関東の一角」だった「甲斐のニューフェイス」武田信玄も北条攻めを決めました。



関東管領軍に、
里見だけでも苦戦しているのに・・・



今川と武田まで攻めて
来たら・・・



我が北条は四方から
集中攻撃を浴びてしまう・・・
三代目就任早々に、絶体絶命の危機に陥った北条氏康でした。