前回は「「真田の総本山」上田城〜抜群の光放つ真田家の知謀と軍事力・不気味な緑色に濁る堀・異彩放つ「真田らしい」堀〜」の話でした。
信長・秀吉・家康級の信繁と昌幸の軍事能力:「真田」のイメージ

「真田の総本山」上田城を訪問しました。
歴史好きや戦国ファンの人にとって、真田家は特別な存在です。
「真田の祖」とも言える真田幸隆(幸綱、の説もあり)、真田昌幸、真田信繁(幸村)が真田三代です。
中でも、「真田幸村」という「実名ではない名前」で、圧倒的知名度を誇る真田信繁。
・真田幸隆(幸綱):知謀
・真田昌幸:知謀+采配+政治
・真田信繁(幸村):采配+知謀
・真田信之(信幸):政治
真田三代に対しては、概ね上のようなイメージを持っている人が多いと思われます。
中でも、真田信繁の圧倒的采配と軍事力は、「戦国最強」と呼ばれる名誉を得ています。
真田信繁に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
そして、この「真田の圧倒的強さ」のイメージには、「知謀+采配(軍事力)」の印象が強いです。
・真田幸隆(幸綱):攻城戦(調略)
・真田昌幸:攻城戦(防衛) +野戦
・真田信繁(幸村):野戦
・真田信之(信幸):攻城戦(防衛)
そして、その合戦の歴史から「真田二強」の昌幸は攻城戦、信繁は野戦の印象が強いです。


私は野戦も攻城戦も
自信がある!



私は野戦よりは
攻城戦の方が得意だ!



この家康は、
野戦では、誰にも負けん!
戦国三代英雄の信長・秀吉・家康は、野戦と攻城戦に対しては、得意不得意があったと言われます。
ただし、信長・秀吉・家康は、いずれも圧倒的軍事能力を持っており、



この秀吉は野戦が
不得意ではなく、攻城戦ならば天下一!
「野戦がやや不得意」と言われる秀吉は、実際は「攻城戦が天下一で、野戦も達人」と考えます。
そして、軍事能力において、信長・秀吉・家康と同等に評価されているのが、真田信繁と真田昌幸です。
徳川に二度の痛恨の打撃を与えた上田城:昌幸と信繁の奮闘


いかにも真田らしい堀の脇を歩いてゆくと、歴代城主の幟の脇から上田城の櫓が見えてきました。
「初代〜二代」の上田城主とされる真田家の幟が、上田城にはピッタリです。


真田家・仙石家・松平家と続く、歴代上田城主の家紋が記された幟の向こうに門が見えてきました。
1585年の第一次上田合戦で、4倍の徳川軍に快勝した真田昌幸。



4倍の軍勢であろうと、
徳川に勝って見せよう!
一般的に、籠城線には「3倍の人数が必要」と言われるので、



武田の流れを汲む
真田か・・・



まあ、3倍を少し上回る
4倍の我が軍ならば、倒せるだろう・・・
当時の徳川家康は、こう考えたに違いないでしょう。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
真田 幸隆(幸綱) | 1513年 |
武田 信玄 | 1521年 |
徳川 家康 | 1542年 |
真田 昌幸 | 1547年 |
真田 信繁(幸村) | 1567年 |
1585年当時、44歳(数え年、以下同)で脂が乗り切っていた家康に対して、5歳年下の昌幸。
信繁に至っては、まだ19歳の「若者」というよりは「若僧」でした。



よしっ、
徳川を撃退したぞ!



おのれ・・・
この徳川に恥を・・・


家康も徳川四天王のいずれも不在だったとは言え、当時「戦国一」とも言われた徳川軍。
その徳川軍を打ち破った真田昌幸の名前は、天下に鳴り響きました。



わっはっは!
徳川軍、敗れたり!
この「真田昌幸の快勝」となった1585年の上田城の戦いは、第一次上田合戦と呼ばれています。
そして、1585年の15年後の1600年の関ヶ原の合戦となりました。





上田城には、
真田昌幸と真田信繁・・・



上田城は
適当にあしらって、先に進め・・・





はっ、
承知致しました!
今度は、真田軍約3,000に対して、徳川軍約38,000の戦いとなった第二次上田合戦。
前回の「徳川が4倍」を遥かに超えた、「徳川が13倍」の軍勢となりました。



真田は、
徳川に城を明け渡します!



左様か・・・
懸命な判断じゃのう・・・
一度は「城を明け渡す」と宣言した昌幸でしたが、



「城を明け渡す」のは
偽装であり、弓矢で来い!



おのれ!
徳川二代目の力を見せてくれる!
上手く「二代目坊ちゃん」だった徳川秀忠を挑発した真田昌幸。



この信繁も
縦横無尽に戦ってみせる!
「第一次」の時は若造だった信繁は、34歳の青年武将に成長し、



お、おのれ・・・
この秀忠が、このような惨敗を喫するとは・・・
徳川軍に痛恨の打撃を与えました。
そして、真田昌幸と真田信繁の攻撃によって、痛恨の打撃を受けただけではなく、



大事な、関ヶ原の合戦に
間に合わなかった・・・
3万8,000ほどの大軍勢を率いておきながら、「最重要である決戦」に間に合わなかった秀忠。



徳川には勝ったが、
肝心の石田たちが敗けたか・・・



しかも、
たった1日の決戦だったようで・・・



・・・・・
もはや「無言になるしかない」心境だった昌幸と信繁は、信之の「決死の助命嘆願」で生き残ったものの、



真田・・・
絶対に、絶対に許さぬ・・・
その後、秀忠は、生涯に渡り、絶対に昌幸と信繁を許すことはありませんでした。


江戸時代以降に復元した、上田城の城門にやってきました。
今は綺麗に整備された橋がかかりますが、「真田らしい堀」で徳川軍は大苦戦しました。
次回は、城門の中へ入ってゆきます。
次回は上記リンクです。