前回は「美しい水都だった清洲城〜「銭を運ぶ」水運を重視した織田信長・「戦国の大梟雄」信秀と道三の打算的同盟〜」の話でした。
「真田の総本山」上田城:抜群の光放つ真田家の知謀と軍事力

山々が日本一美しい信州。
真田家の本拠地とも言える、信州・上田城を訪問しました。
おそらく、世界の様々な人々と比較して、「歴史好きが多い」と思われる日本人。
・戦国時代:1550年〜1615年頃(一部、江戸時代)
・幕末維新:1840年〜1870年頃
・第二次世界大戦:1938年〜1945年頃
そして、歴史が好きな方が「好きな時代・興味がある時代」トップ3は、上記の3つの時代です。
ここで、第二次世界大戦の歴史に関しては、

歴史は好きだけど、
第二次世界大戦の話は、ちょっと・・・
大日本帝国がアジア侵略をした事実や、敗戦した事実などから、人気は比較的低いです。
そして、残る戦国時代と幕末維新に、歴史好きの興味が集中しますが、



やっぱり、
戦国時代が一番好きだね!
最も人気が高いのは戦国時代です。
筆者は小学校5年生くらいから、歴史に大いに興味を持ちましたが、やはり「入口は戦国時代」でした。


たくさんの超個性的な戦国武将たちが登場し、鎬を削る戦国時代。
「事実は小説より奇なり」を地で行く面白さを感じさせてくれるのが、戦国時代です。


そして、戦国ファンの間で、抜群に人気が高いのが真田です。
上の「真田グループ」には、信繁(幸村)の兄・信之(信幸)が入っても良いかもしれません。
多くの場合、「真田三代」として考えられるのは、上の三名です。
小大名ながら超強力なパワーを発揮した真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信繁(幸村)。
戦国時代で抜群の光を放つのが、真田家の知謀と軍事力です。
中でも、真田信繁(幸村)は抜群の人気を誇ります。
その、「真田の総本山」とも言える存在が、上田城です。
不気味な緑色に濁る堀:異彩放つ「真田らしい」堀


上田城の駐車場からすぐ近くの公園の内部にも、上の写真のように石垣が復元されています。
地元の子どもたちが楽しそうに遊んでいる、すぐ近くに石垣があるのも不思議な光景です。


少し歩いてゆくと、上田城の堀が見えます。
現代の城郭の堀は、比較的綺麗に整備されていて、鯉などの魚が泳いでいることが多いです。


朝倉家の一乗谷朝倉氏遺跡を訪問したときは、復元された一乗谷周辺で綺麗な川が流れていました。
一乗谷朝倉氏遺跡を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。
一乗谷朝倉氏遺跡は、高度成長期の1967年から発掘調査が開始し、近年観光地として整備されました。
そして、当時も明らかに「戦うための城」ではなかった一乗谷。
ある意味では、「朝倉家の華美を具現化した館」であった一乗谷。
この一乗谷館を復元する時、川は「小京都らしい典雅な雰囲気」が望ましいようにも思います。
この観点から、「鯉が及ぶ綺麗な川」として整備された一乗谷。



この真田昌幸が守る
上田城は、絶対に落ちんのだ!
それに対して、真田昌幸が精魂込めて築城した「絶対に落ちない城」であった上田城。
単なる「館」ではなく「難攻不落の城」であった上田城の堀は、「難攻不落らしさ」を醸し出しています。
緑色に強く濁った堀を持つ、「戦国最強の城の一つ」である上田城。





真田が
立て籠る上田城か・・・
1582年、信長が本能寺の変で横死した直後から、甲信地方で真田・徳川・北条が大いに争いました。
お互いが散々戦った後に和睦することなり、3年後の1585年には、



真田殿・・・
関東甲信の織田家の影響力は排除した・・・



どうだ・・・
我らで仲良くしようではないか・・・



真田殿は沼田を
北条に明け渡して頂き・・・



沼田を明け渡す、だと!
絶対に拒否する!



仕方ないな・・・
真田には消えてもらおう・・・
そして、徳川家は8,000ほどの軍勢を送り、真田家を潰す方針に出ました。
対する、真田家は10万石程度の勢力であり、2,000名ほどで、上田城に籠城しました。



4倍の軍勢の
徳川か・・・
徳川・北条と死闘を続けた真田昌幸ですが、両方とも「旧主・武田家を潰した仇敵」でした。


盛況を誇った武田家において、長年尽くし続けた真田家。



我が父・幸隆(幸綱)も
信玄様によって、引き立てられた・・・



そして、ワシも信玄様の
薫陶を受けた・・・



その武田を潰した
徳川と北条・・・
徳川も北条も「武田の仇敵」でしたが、北条に関しては「武田と敵対した明確な理由」がありました。
上杉家の「御館の乱」で、勝頼が上杉景勝側につき、実の弟・上杉景虎を殺された氏政。



おのれ、勝頼・・・
我が弟を自刃に追い込むとは・・・
そして、武田討滅戦で「お義理」にように出陣したのが北条家でした。
対して、武田とずっと敵対関係にあり、武田討滅戦も参加した徳川。



徳川は絶対に
許せん!



我が真田の
采配を見よ!
そして、4倍の軍勢であった徳川軍を木っ端微塵にしたのが、ここ上田城の籠城戦でした。
上田城では、関ヶ原の戦いの局地戦も行われ、その際も「戦い抜いた」城でした。
その「戦闘のために築城された」上田城は、江戸時代からも着実に整備されてきました。
そして、「真田の采配を具現化した城」として、上田城の堀は、不気味な光を放ち続けています。


角にある「隅欠(すみおとし)」は鬼門対策ですが、これもまた、真田の軍略の一つに感じられます。
不気味な緑色に濁り、登るのが困難な堀は、いかにも難攻不落です。
堀を見て、ここまで「合戦や戦闘を感じた」ことは初めてです。
それほど、異彩を放っている「真田らしい」堀と考えます。
次回は、城内に入ってゆきます。
次回は上記リンクです。