戦国「最強の武将」・真田幸村の実像〜「戦国最強の徳川家康」を追い込んだ采配と軍略・三方原で「木っ端微塵にされた」家康〜|真田信繁1・人物像・エピソード

前回は「戦国指折りの大戦略家・真田昌幸の実像〜評価が「異常に高い」真田・「幸村効果」と「信玄効果」で戦国最強武将へ・武田流の直系〜」の話でした。

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戦国武将 真田信繁(幸村)(Wikipedia)
目次

戦国「最強の武将」・真田幸村の実像:三方原で「木っ端微塵にされた」家康

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左上から時計回りに、戦国大名 織田信長、徳川家康、上杉謙信、武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

数多くの将星達が登場した戦国時代。

日本の歴史の中で最も人気がある時代は、戦国時代、幕末維新の二つの時代です。

いずれの時代も多数の人物が登場しますが、やはり戦国時代の方が登場人物が多い傾向があります。

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1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

中国や米国と比較すると「小さな国土」と表現されることが多い日本。

当時の日本は、北海道は「外国のような存在」であり、北の果ては陸奥でした。

この日本の中で、多数の勢力が登場しては消え、はたまた新たな勢力が登場したりと、勢力図が塗り替えられました。

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1573-75年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

戦国時代の「華の時代」は1572〜73年前後で、武田信玄が西上作戦を実行した頃です。

武田信玄

信長めに
鉄槌を下すのだ!

この頃、武田信玄は上杉謙信と敵対しており、上杉謙信は「織田派」でした。

上杉謙信

我が上杉家は
織田家と同盟を結んでいる!

この中、武田信玄は、後方の上杉家の配慮を春日虎綱(高坂昌信)に託し、

武田信玄

まずは徳川を
踏み潰してみせよう!

三方原の戦いで、徳川家康率いる徳川軍を木っ端微塵にしました。

徳川家康

おのれ・・・
信玄め・・・

この時は、武田軍約27,000人に対して、徳川軍は織田援軍を合わせても約11,000人ほどでした。

つまり「3倍近い数の敵」を相手に平地で戦ったのが、徳川軍であり、しかも武田軍は当時「世界最強」でした。

どう考えても「勝てるはずがない」状況の中、徳川家康が武田軍に突っ込んだ理由は諸説あります。

武田信玄

わっはっは!
我が武田は最強!

そして、この「戦国最強の武田軍」の系統である「戦国最後にして最強の男」が真田幸村でした。

「戦国最強の徳川家康」を追い込んだ采配と軍略

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川中島の戦い:再現@山梨県文化会館(新歴史紀行)
真田信繁

私は1570年
生まれの真田信繁!

国民的ヒーロー・英雄とも言える真田幸村の本名は、真田信繁です。

日本人A

真田幸村なら
知っているけど・・・

日本人A

真田信繁って名前だった
ことは知らない・・・

多くの人が知っている真田幸村ですが、本名が信繁であることを知っているのは、戦国ファンくらいでしょう。

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戦国大名 真田昌幸(Wikipedia)
真田昌幸

ワシが信繁の
父の昌幸だ・・・

そして、武田信玄の近習として長きにわたり「すぐ近くで仕えた」真田昌幸は、

武田信玄

武藤喜兵衛(真田昌幸)は
我が目なり!

武田信玄から、その才能を愛されました。

真田昌幸

武田流の軍学を
実体験して身につけた!

そして、「武田流軍学の全て」を身につけた真田昌幸は、その能力を見せつけました。

1547年生まれ(諸説あり)とされる真田昌幸が25歳になる1572年に、三方原の戦いが起きました。

当時は、元服が早く、当時の25歳は現代の35歳ほどに相当します。

この意味では、若さと能力が熟しつつある頃に、武田家の最盛期を迎えた真田昌幸。

武田信玄

む、
無念だ・・・

ところが、1573年には、武田信玄は病没(諸説あり)してしまいました。

この頃に3歳になっていた真田信繁は、成人するにつれて、

真田信繁

武田流軍学の
継承者である父・昌幸!

真田信繁

そして、父昌幸が
真田流軍学へと昇華させた!

真田信繁

その日本最強の真田流軍学を
継承するのが、この信繁!

「武田信玄→真田昌幸→自分」の流れを意識したでしょう。

武将名戦闘力
上杉謙信100
真田幸村(信繁)97
武田信玄96
竹中半兵衛(重治)94
真田昌幸90
織田信長88
徳川家康88
北条氏康85
主な武将の戦闘力(信長の野望 武将風雲録:1570年頃)

そして、この「日本最強の真田流軍学」を身につけた若き真田信繁は、ゲームなどでも極めて高い能力です。

少し古いですが「信長の野望 武将風雲録」では、父昌幸はもちろん、本家本元の武田信玄も凌駕します。

このゲームでは「戦闘力95以上は別格」の設定がされており、謙信・幸村・信玄が騎馬隊を率いると、

真田信繁

この真田幸村(信繁)の
槍を受けてみよ!

相手が戦闘力80台の比較的強力な武将であっても、バッタバッタと倒してゆきます。

一方で、この戦国最強の武将の実力は謎に包まれており、多くは「判官贔屓」であります。

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大阪(大坂)城(新歴史紀行)

大坂(当時は大ではなく大と表記)の陣では、真田信繁が、

真田信繁

家康の首さえ取れば、
豊臣の勝ちだ!

真田信繁

家康!
見参!

徳川家康

おのれ・・・
真田め・・・

当時「真の戦国最強」だった徳川家康を「敗走に近い状況」に追い込んだと伝わります。

それまで、関ヶ原の戦い以降15年近く、「最も良い時期」を九度山に閉じ込められた真田信繁。

久々の戦いで、徳川軍・徳川家康に痛撃を与える大功績を挙げました。

そして「戦国最強の徳川家康」を上回ったことから「戦国最強は真田信繁」となったのでした。

次回は、若き頃の真田信繁の成長を考えます。

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