「真田の精神」が感じられる上田城〜昌幸の「上田への想い」残る真田石・「真田の采配」に完敗した秀忠〜|信濃・上田城3

前回は「徳川に二度の痛恨の打撃を与えた上田城〜昌幸と信繁の奮闘・信長と秀吉と家康級の信繁と昌幸の軍事能力・「真田」のイメージ〜」の話でした。

目次

「真田の精神」が感じられる上田城

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上田城(新歴史紀行)

日本各地にある城は、多くは復元城廓です。

現存十二天守

・姫路城(兵庫県姫路市)

・彦根城(滋賀県彦根市)

・犬山城(愛知県犬山市)

・松江城(島根県松江市)

・松本城(長野県松本市)

・丸亀城(香川県丸亀市)

・丸岡城(福井県坂井市)

・宇和島城(愛媛県宇和島市)

・備中松山城(岡山県高梁市)

・高知城(高知県高知市)

・弘前城(青森県弘前市)

・松山城(愛媛県松山市)

「現存十二天守」と呼ばれる、「昔のままの天守」は日本には12しかありません。

そして、多くの城郭においては、「堀に映える城郭」を意識して、堀も水も綺麗であることが多いです。

復元・現存いずれにしても、多くの城に対して「真田らしい」堀に囲まれた上田城。

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上田城(新歴史紀行)

城門への道は、綺麗に整備されていますが、おそらく昔は「真田の城門への道」だったと思われます。

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真田三代:上から反時計回りに、真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信繁(幸村)(Wikipedia)
真田昌幸

武田の流れを汲み、
信州に蟠踞し続けた真田だ!

真田昌幸

この真田昌幸が精魂尽くして
築城した上田城を見てみよ!

真田領となった城郭に対して、多くの追加工事・普請を指揮した真田昌幸。

おそらく、上田城に対しては、「真田昌幸の全て」を注ぎ込む気持ちで臨んだでしょう。

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上田城(新歴史紀行)

綺麗に舗装された城門への道からは、城内へ真っ直ぐ進みたくなりますが、脇の彫りを見てみました。

濁った水の堀と周囲の樹木、そして、遠方の信州の山々が見え、「真田の精神」が感じられます。

昌幸の「上田への想い」残る真田石:「真田の采配」に完敗した秀忠

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上田城(新歴史紀行)

城門を入ってすぐに「真田石」が、あります。

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上田城(新歴史紀行)
真田昌幸

徳川秀忠が4万近い軍勢を率いて、
中山道を上り、ここ上田を通る・・・

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徳川家後継者(徳川家康の三男) 徳川秀忠(Wikipedia)
徳川秀忠

歴戦の
戦国大名真田か・・・

名前生年(一部諸説あり)
真田 幸隆(幸綱)1513年
武田 信玄1521年
徳川 家康1542年
真田 昌幸1547年
真田 信繁(幸村)1567年
徳川 秀忠1579年
真田三代と信玄・家康の生年

戦国の嵐を乗り切った百戦錬磨の真田昌幸。

真田昌幸が54歳(数え年、以下同)、次男の信繁(幸村)が34歳の時に、関ヶ原の合戦が勃発しました。

昌幸にとっては、次男信繁の12歳年下であり、大して戦の経験がなかった徳川秀忠。

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戦国大名 徳川家康(Wikipedia)
徳川家康

真田には、散々な
目にあってきた・・・

徳川家康

天下一の徳川軍が、
敗北したこともある・・・

徳川家康

上田城は
適当にあしらって、先に進め・・・

徳川秀忠

ははっ!
急ぎ中山道を突き進みます!

「東の上杉攻撃」から反転して、「西の石田攻撃」に向かった家康率いる東軍。

その家康の視線の先は、石田三成らの「豊臣残党撲滅」であり、真田は「どうでも良い存在」でした。

それまでの日本の歴史においても、決戦は「中央から西」で行われてきました。

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京・山城中心の日本(新歴史紀行)

現代の「東京中心」の日本の国家像とは、全く異なり、戦国期までは「京・山城中心」の国家像でした。

そして、当時は、太平洋での外国との接触は少なく、そもそも中国大陸や朝鮮との交易が中心だった日本。

つまり、ほぼ全てが「西側の海を経由」して外国と接触していたため、「西国が先進エリア」でした。

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壇ノ浦の戦い(Wikipedia)

西国で行われた、源平の大決戦「壇ノ浦の戦い」は、中央ではなく西国エリアでした。

これは、「先進エリア」えあった西国に「平家が一時後退した」ことが大きな理由です。

いずれにしても、戦国期までの歴史において、「東国の立場」は中央と西国より低いのが現実でした。

その「後進エリア」であり、「決戦とは無関係エリア」である東国の中山道・上田城の真田。

徳川家康

秀忠の能力は
疑問だが・・・

徳川家康

本多正信と榊原康政を
つけたから、大丈夫か・・・

不安に思った家康は、謀臣・本多正信と歴戦の勇将で徳川四天王の一人・榊原康政をつけました。

徳川家康

真田の上田城には、せいぜい
3,000ほど置いて、進むであろう・・・

「城攻め」には多数の軍勢が必要ですが、「城の軍勢に対する防衛」であれば、1.5倍程度で十分です。

おそらく、家康は安心して、東海道を進んでいたでしょう。

対して、若僧だった秀忠は、

徳川秀忠

徳川家を継ぐ
この秀忠の力を見せつけたい!

こう考えて、「何とか真田を屈服させて、名声をあげる」ことを考えていたでしょう。

この「秀忠の魂胆」を見抜いていた昌幸は、偽装降伏して、秀忠を挑発し、

徳川秀忠

おのれっ、真田!
上田城を潰して見せるわ!

大軍勢で上田城に攻めかかりましたが、「真田の采配」に完敗した秀忠。

真田昌幸

徳川秀忠の4万近い
軍勢を、ここ上田で食い止めたぞ!

徳川秀忠

おのれ、
真田め・・・

徳川秀忠

偽装降伏なぞ、
小癪な真似を・・・

真田昌幸

こんな初歩的な戦略に
引っかかる、お前こそが愚か者なのだ!

ところが、「本場の決戦」である関ヶ原の戦いが、たった一日で終了してしまいました。

真田昌幸

我が西軍の
敗北か・・・

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初代真田松代藩主 真田信之(Wikipedia)
真田信之

私は東軍についたが、
父と弟を助けたい・・・

真田信之

まずは、名前を「信幸」から
「信之」に変えよう・・・

「信之」に変名して、昌幸と信繁の助命嘆願を続けた信之。

結果的に、「何とか助命」となったものの、

徳川秀忠

真田の上田城は、
絶対に真田ではダメだ!

「メンツ丸潰れ」の秀忠は、「真田の上田城」をこの世から抹殺しました。

真田信之

我が真田家は、
海津城へ移るか・・・

そして、川中島の戦いで有名な海津城に移り、「松代城」と名を改めた信之。

真田信之

この巨大な石を
松代城へ持ってゆきたいが・・・

真田信之

どうしても
動かないのか・・・

「昌幸の形見」として、松代へ持ってゆこうとした巨石は、絶対に動きませんでした。

まるで、

真田昌幸

真田の本拠地は、未来永劫
ここ上田なのだ!

昌幸の上田への想いが乗り移っていたか、のように。

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