前回は「「武のシンボル」熊本城・熊本鎮台〜西郷隆盛を危険視した大村益次郎・明治政府六鎮台の一つの熊本鎮台・大きく変化した日本の重心と骨格〜」の話でした。
歴史的に重要な熊本城:加藤清正が「隈本」から「熊本」へ
現代日本において、姫路城と並び有名な熊本城。
規模が大きく、より優美な姫路城は、世界遺産であり国宝です。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
さらに日本には「現存12天守」と呼ばれる12の城があり、熊本城は入っていません。
国宝ではなく重要文化財である熊本城は、格はやや落ちるかもしれません。
一方で、歴史の中においては、姫路城より熊本城の方が有名であり、重要であるとも言えるでしょう。
そもそも熊本は元は「隈本」という地名で、後に加藤清正が国主となった時に、地名変更されました。
これからは
隈本ではなく「熊本」と呼ぶ!
この「名称を変える」は、織田信長が得意としていました。
これからは
稲葉山・井ノ口ではなく「岐阜」と呼ぶ!
そして、織田信長の寵臣であり重臣であった羽柴秀吉。
最初に、北近江で信長から所領を拝領した際に、
これからは
今浜ではなく「長浜」と呼ぶ!
織田信長様の
お名前にあやかるのだ!
織田信長・羽柴秀吉に連なる系列の加藤清正。
織田信長様、主人の秀吉様に
あやかって、私も名前を変えよう!
おそらくは、信長と秀吉の真似をして、拠点の名称を変えたのでしょう。
巨大大名・大友家の南の守りだった隈本
かつて、隈本エリアで最盛期には九州で6もの守護を兼ねた「巨大大名」大友家が領有していました。
豊前から豊後などの北九州へ勢力を拡張していった大友家。
1570年頃は大友家が最強で、龍造寺すら「大友に従属」していたころです。
この頃、大友は北九州の筑前・豊前エリアをまとめ上げていました。
そして、南側は、ちょうど隈本(熊本)付近が最前線となっていました。
当主・大友宗麟はかなりのやり手の人物であり、海外との交易にも非常に積極的でした。
交易に積極的過ぎて、ついにはキリシタンに共鳴した宗麟。
キリシタンの
教えは素晴らしいのう・・・
私もキリシタンに
なろうか・・・
そして、「キリシタンの国」を作ろうと考えた宗麟は、
もう、合戦など
どうでも良いから、家臣に任せた・・・
この「腑抜けになった」宗麟の影響もあり、耳川の合戦で島津に大敗北し、凋落する大友家。
そして、島津と大友の決戦は、1578年に日向で行われました。
この「耳川の戦い」で前代未聞レベルの大敗を喫した大友家。
まさか・・・
こんな大敗北が・・・
まさに九州最強であった大友家が凋落して、大きく勢力が後退しました。
龍造寺と島津の睨み合いの前線基地:西南戦争の主戦場へ
続いて、「大友の下」とも言える存在に過ぎなかった龍造寺家が大きく興隆しました。
俺に
続け!
肥前を本拠地とした龍造寺隆信は、東へ南へと九州で急速に勢力を拡大しました。
五州二島の
領主よ!
瞬間的には「九州最大の勢力」に成長した龍造寺家。
その南へと勢力を伸ばした先に、ちょうど隈本(熊本)が位置しています。
長らく、菊池氏・城氏などが領有した隈本。
当時の隈本城(熊本城)は、砦程度の規模であったと考えられます。
九州の北西から勢力を伸ばす龍造寺と、南から勢力を伸ばす島津。
この二つの勢力がぶつかり合うのは、時間の問題でした。
両軍共に強力な水軍を持たないため、基本的には地上戦の合戦でぶつかり合います。
肥後から
島津を攻めよ!
と、この頃、龍造寺隆信は考えていたでしょう。
その場合、前線である肥後で大きな合戦が行われることになります。
隈本(熊本)周辺では、龍造寺家によって拠点構築・城や砦の大規模改修が計画されていたでしょう。
城攻めよりも野戦で強力な龍造寺は、やはり野戦で最強の島津家とぶつかります。
我が島津が
九州で最強となるのだ!
そもそも、九州で最も名門であるのは島津家です。
我が島津家は、
鎌倉時代以来の名門!
大友家も名門でしたが、そもそも鎌倉時代から守護となっていた島津家。
「格が違った」のが現実でした。
そして、島津家と龍造寺家が対峙し、大きな合戦が行われるのが確実な情勢となりました。
島津・龍造寺が戦う決戦の場。
それは、両勢力が接する肥後しかない状況となりました。
この頃、まだ立派な城ではなく、知名度も高くなかった「隈本城」。
両勢力にとって、最前線基地の一つとなる予定だったのでしょう。
ところが、龍造寺傘下であった有馬家の裏切りに激怒した龍造寺隆信。
おのれ!
まずは有馬を片付ける!
龍造寺軍の総兵力とも言える25,000ほどの軍勢が、沖田畷周辺に固まりました。
ここで、島津家切っての闘将であった島津家久が、劣勢の3,000を率いて乗り込みました。
龍造寺隆信に
「釣り野伏せ」を仕掛けよ!
ま、
まさか・・・
「勝つはず」であった大軍勢の龍造寺軍は「当主・龍造寺隆信討死」という大惨敗を喫しました。
この「沖田畷の戦い」の後、龍造寺家は島津軍に従属しました。
そして、「前線拠点・隈本城」は出番がありませんでした。
時は流れ、隈本城(熊本城)が歴史に大きく登場するのは、300年ほど後の西南戦争でした。