前回は「彷徨する立花道雪〜大友家の致命傷となった耳川の戦い・過去から全く学ばなかった大友宗麟・「ザ・守護」だった島津家・鎌倉以来の超名門〜」の話でした。

大局観と強い政治力を持っていた大友宗麟

1578年に、島津家と大友家の日向で一大決戦を行うことになりました。
北上する島津義弘ら島津家を、大軍勢で迎え撃つ大友家。

確かに島津家は
鎌倉以来の守護の名家だが・・・



豊前・豊後・筑前・筑後・
肥前・肥後の六カ国の守護を兼ねているのだ!


若き頃から強力な政治力で大規模な大友家を制してきた大友宗麟(義鎮)。
元々、名門であり大きな領土を持った大友家を相続しましたが、さらに拡張しました。
この大友家の隆盛は立花道雪や吉弘鑑理、臼杵鑑速らのサポートが大きいですが、なんと言っても、



主君である
私の才覚で大友家を強くしたのだ!
一時は、肥前の少弐氏の家臣に過ぎなかった龍造寺家も従属させて、150万石近い領土を有しました。
さらに、



南蛮との交易は
積極的に行うのだ!



交易は利益が大きく、
最新鋭の武器を手に入れられる!



そして、私はキリスト教は
大変気に入ったのだ!
おそらく、当時の日本で、信長以前では大友宗麟が最も南蛮との付き合いに積極的だったでしょう。
この意味においては、非常に大局的思考を持ち、優れた政治力を持っていたのが大友宗麟でした。
致命傷を受けた大友家:島津家との決戦で大惨敗


北上を続ける名門・島津家との決戦の日が近づいてきました。
後の時代に「耳川の戦い」と呼ばれるこの戦いは、「高城川の戦い」とも呼ばれます。



大友家も
総力を上げよ!
6万ともいわれる大軍を、大動員した大友家。
おそらく、当時の大友家の動員力を目一杯使っての兵力でした。
乾坤一擲の戦いと思いきや、



ワシは
出陣せん!
なんと、島津との大決戦であるにもかかわらず、当主の宗麟は出陣をしないことに決定しました。



キリシタンの国づくりに、
忙しいのだ!



田原紹忍たちに
任せておけばよかろう!
宗麟や道雪不在の中、中途半端な武将たちが。寄り合い所帯のように群れていただけの大友軍でした。
対して島津軍は当主であった島津義久が出てきており、島津義弘らもいる主力メンバーでありました。


統制すらまともに取れていなかったものの、6万人もの大軍擁する大友家。
大友軍は勇んで島津軍に襲い掛かりました。



島津のお家芸の、
釣り野伏せだ!



大友軍を
引き寄せよ!



追い討ちを
かけて、島津を叩き潰せ!
島津軍の「釣り野伏せ=偽装退却」であることも気づかず、大友軍は大いに追撃し、



頃合いは
よし・・・



大友を
殲滅するのだ!
そして、島津お得意の「釣り野伏せ」を思い切り喰らってしまった大友軍。



ば、馬鹿な・・・
こんなことが・・・



我が軍勢は、
壊滅だ・・・
島津に、致命傷となる大敗を喫してしまいました。



若き頃の殿は、
鋭気溌剌としていた・・・



最近の殿は、
キリシタンにかぶれすぎだ!



ここで敗北して、
殿には、眼を覚ましてもらおう!



多少の敗北は、
やむをえん!
宗麟に反省を促すつもりだった、道雪。
大友家は、宗麟はもとより道雪の想定をはるかに超える、大大惨敗を迎えてしまいます。



この大敗北は、
全くの想定外だ・・・
多数の優れた将兵を一気に失ったこの合戦で、大友家は、もはや取り返しのつかない状況となりました。
大友家の武雷神・道雪の咆哮





まさか、
こんなことになろうとは・・・
従属していた龍造寺に叛かれ、さらに島津に耳川の合戦で致命傷とも言える大敗北した大友家。
かつては九州の雄であった大友家は、一気に版図が小さくなります。
多数の国人の離反をさらに招き、滅亡の危機に陥ります。
鍋島直茂(信生)の強力なサポートの元、肥前の熊・龍造寺隆信は急成長しました。



これからの九州は、
我が龍造寺が支配してゆくのだ!
成松信勝ら龍造寺四天王を率いて、熊とも虎とも言える猛烈な勢いで急速に勢力を拡張しました。





隆信様と共に、
肥前から龍造寺の領土を広げるぞ!
さらに智勇兼備の勇将であった鍋島直茂に加えて、屈強の武将たちが龍造寺を盛り立てます。
この時の龍造寺家の家臣団は、武田四天王を彷彿とさせるほど強烈な存在でした。
大友家の従属勢力に過ぎなかった龍造寺は本拠地肥前を中心に、筑前・筑後・肥後・豊前へと進出します。



これからの九州は、
我が龍造寺の天下よ!
そして、大友家の本領の豊後に迫ります。



まさか、豊後周辺まで
攻め込まれるとは・・・



まだ、
この道雪がおります!
かつて九州の盟主として、中国地方の毛利と死闘を演じましたが、それもはるか昔となりました。


かつての九州の覇王・大友家は大きく後退し、九州三国志の中で最弱とも言える存在となりました。



まさか・・・
こんなことが・・・
衝撃のあまり、絶句してしまった宗麟。
かつては「家臣同然」だった龍造寺家に筑前・筑後・肥後の領土を奪われました。
大友家は80万石程度の領土を失い、代わりに龍造寺家は80万石程度の大大名に飛躍しました。



よっしゃ!
俺は五州二島の太守よ!
怒涛のような龍造寺軍は筑前を守る立花道雪の領土にも攻め込んできました。



筑前・立花山城周辺は、
死守してご覧に入れる!





我が織田家が
天下を治めるのだ!
九州で三つ巴の死闘を演じている中、日本の中心部であった近畿では織田家が猛烈な勢いで伸びていました。
武田を滅亡に追い込んだ織田家。
猛烈な勢いで、その版図を広げ続けていました。





豊前・豊後、そして
我が筑前を守るのだ!
もはや取り返しのつかない状況に追い込まれていた大友家でしたが、道雪は咆哮して戦い続けました。



戦え!
戦い続けるのだ!
まさに、「大友家の守護神・武雷神」であった道雪。
道雪の超一流の神通力で、一気に大友家が再興するのかどうか、の瀬戸際でした。
そして、当主であった大友宗麟は、



もはや私は
キリスト教と共に生きれば満足・・・
あまりのショックで、完全にやる気をなくしている中、道雪は燃え続けました。



私が大友家を
守ってみせよう!
1513年に生まれ、もはや70に近い高齢の道雪。
道雪は、最後の力を振り絞って獅子奮迅の働きを続けていました。
次回は上記リンクです。