前回は「大坂城と日本 3〜信長の野望と大坂〜」の話でした。
明治政府六鎮台の一つの熊本鎮台
今回は熊本城の話です。
2016年の熊本地震で大きな被害を受けたのち、再度大規模な修復がなされました。
訪れたのは熊本地震の前ですが、無事修復・復旧が進んで、本当に良かったです。
姫路城と比較すると、少しこじんまりとした熊本城。
実は、江戸時代から「九州の要の城」であり続けました。
明治新政府が新たに軍を編成した際には、日本全国六鎮台の一つとなっています。
東京鎮台:第一師団
仙台鎮台:第二師団
名古屋鎮台:第三師団
大阪鎮台:第四師団
広島鎮台:第五師団
熊本鎮台:第六師団
第一〜第五師団までの鎮台の位置は、日本の歴史と地形を考えると非常にわかりやすいです。
一方で、「なぜ、九州の鎮台が熊本なのか?」は、当時様々な意見があったと思われます。
実際、九州の鎮台は「小倉鎮台」が検討された時期もあったようです。
大きく変化した日本の重心と骨格
新しい国家となった明治維新政府にとっては、
西洋に
追いつくのだ!
西洋、特に欧州こそが目標でした。
それまでずっと「アジアの中」で生きてきた日本。
オランダ・朝鮮・中国などとは公式な交易があったものの、おおむね「鎖国状態」でした。
そして、幕末から米国・英国などから条約を求められ、世界への視野が急速に開かれました。
世界への視野は、欧米の最新の科学技術・学問などの急速な輸入に繋がりました。
そのなか、軍事力の配置は非常に重要です。
270年近くの長きにわたって続いた徳川幕府・江戸時代。
京・大阪が政治・経済の中心であった日本の骨格が変わりました。
そして、江戸が政治・経済の中心となりました。
やはり、日本人にとっては、京・山城こそが精神的中心だったでしょう。
軍事力の基盤である鎮台の配置は、明治新政府内でも大きな議論があったと考えられます。
天皇陛下にも
江戸に御動座いただく!
うむ・・・
よかろう・・・
名実ともに、江戸が「日本の中心」となりました。
日本の精神的中心・故郷が京都であることは、変わらなかったでしょう。
そして、明治の時代になった、日本の中心・重心が大きく移動したのです。
「武のシンボル」熊本城・熊本鎮台:西郷隆盛を危険視した大村益次郎
廃藩置県によって、江戸時代の藩を消した新政府。
それでも、当時の人々にとっては、まだ旧藩の影響が根強く残っていました。
その中、新設された新たな軍事拠点である六つの鎮台。
こうして、日本全国に対する配置を眺めてみると、バランスが良いように感じます。
鎮台の設置によって、まさに「日本の軍事の骨格」が整備されました。
熊本に鎮台が置かれたのは、薩摩と西郷を敵視していた大村益次郎の影響も強いでしょう。
もともと、西郷が大嫌いで西郷を「危険視」していた大村は、
西郷には
要注意だ!
と考えていました。
そして、
九州の鎮台は
薩摩を押さえる位置の熊本だ!
と決定されたのでしょう。
さらに、なんと言っても「武のシンボル」である熊本城があったこと。
このことが、熊本鎮台設置の大きな理由であったのでしょう。
次回は上記リンクです。